やわらかな遺伝子 マット・リドレー著 書評
原題「生まれは育ちを通して」という著者の主張を証明するためにページを重ねた本。
これは一見当たり前のように感じますが、それをあらゆる取材を通してウイットに富んだ内容も適宜入れながら読み物として成り立たせる能力はさすが「マット・リドレー」という印象。日本タイトルは「やわらかな遺伝子」ですが、これは訳者が「生まれか育ちか」という直訳だと内容を誤解されるからあえて意訳したそうです。でも「生まれか育ちか」の方が本は売れそうな気がしますが。。。
本書では、リチャード・ドーキンスのいう「盲目の時計職人」を「GOD(Genome Organization Device=ゲノム組織化装置)=神」と、あたかも「遺伝子の仕業」を「神」として言い換えているところが面白い。欲望論的には遺伝子が「本体」。でも盲目の時計職人は「盲目」と呼ばれるように「自然の織りなす偶然」のこと。
現役の哲学者カンタン・メイヤスーは「理由の究極的不在ーこれからそれを非理由と呼ぶことになるーは絶対的な存在論的特性であり、私たちの知の有限性の印ではない」として「偶然性こそが必然」と主張し、過去の哲学者ショーペンハウアーは「自然もまた、その内奥にある本質は生きんとする(盲目なる)意志そのもの」といい、形而上学的視点において「盲目=偶然」という概念は、哲学の世界にも通じるところはあります。
進化論は、遺伝子という「盲目の時計職人」が自然環境にフィットするようマッチングしていくことによってこの生物世界が成立していると教えてくれています。
とはいえ遺伝子は設計図に過ぎず、遺伝的に知能が高いからといって勉強しなければ賢くならない。そして人間が意思を持って行動して初めて遺伝子が「オン」になってその形質が発現するわけで、遺伝子と行動が共鳴しあって人間が形成されていくのは間違いない。
アヴェロンの野生児の事例からも、人間による養育を経験していない人間は、言語などの人間的な特性の多くは発現しない事が分かっている。
したがって先天性だけでもダメだし後天性だけでもそれなりで、両方は共鳴しあってこそ能力が発現できる。
でもこれって「スポーツ」と同じで当たり前のことではないか。スポーツは先天的能力があったとしても、練習しなければ絶対うまくなりませんし、負けず嫌いだとか、素直さだとか、メンタル的な部分も影響して上手になっていくもの。
まさに生き物は「生まれか、育ちか」ではなく「生まれは育ちを通して」ということです。
*写真:真間川の桜