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「熊野詣」五来重著 書評


<概要>

まだ熊野古道が世界遺産になるずっと前の1967年出版と半世紀以上前に書かれたものとは思えないほど、神仏習合・修験道・そして原始宗教の織りなす、総合文化たる熊野を多面的に味わえる名著。

<コメント>

「熊野は謎の国、神秘の国である」から始まる本書は、古い本ではあるものの、ちっとも内容が古びていないことにまず感心します。以下興味深い三つのエピソードを紹介。

⒈「熊野別当」という専制君主

熊野三山を支配したのは「熊野別当」という専制君主。「自由の命運」著者アセモグル風に言えば、熊野別当という権力者は、典型的な列島中世の「専横のリバイアサン」。軍事的には熊野水軍など武士団の棟梁であり、宗教的には熊野権現の名において山伏などを統率する熊野修験道の管長。

熊野は、ある意味熊野別当に率いられた独立国家みたいな存在で、その頭領たる熊野別当は、

政治、軍事、経済の実験を全て握っていた。すなわち三山の神官、社僧、常住僧、衆徒、客僧、御師、本願から神人、巫女、比丘尼までも支配し、地方在住の山伏も統轄した。また熊野権現に寄せられた神領や荘園を管理したので、その富と健勢は国士領主を凌ぐと言われ、隠然たる熊野王国の専制君主。

本書第2章

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で登場する源頼朝・義経などの兄弟は、第21代熊野別当「湛増」のいとこ。というのも彼らのおじいさんは同じく「源為義」。

源為義は、熊野別当の権力や武力(=源平合戦にも参戦した強力な水軍)が欲しかったのかどうか、熊野別当と閨閥を作るため自分の娘(立田腹の女房)を「湛増」の妻として熊野に送ります(一方で湛増の妹は平忠度に嫁ぐ)。

立田腹の女房は、そのあと熊野内で同時代に生きた北条政子同様、隠然たる権力を別当内で確立。1137年に「鳥居禅尼」となって以降、その権力を慕って北条政子も、1207年熊野詣し、義理のおばさんたる「立田腹の女房」に面会したといいます。

日本全国に山伏や比丘尼(有髪の尼さん=一部売春婦でもあった)を派遣して勧進(お布施をいただく=集金活動)。

熊野比丘尼が民衆に熊野曼荼羅を絵解きしている様子(和歌山県立博物館。2022年撮影)

ちなみに比叡山・高野山・本願寺など、歴史的に日本の宗教団体は皆、強力な軍事力を保持した独立国家で、領地領民から徴税して成り立っていた組織。

とはいえ、熊野三山は比叡山や高野山とは違った独特の宗教組織で神仏習合の熊野権現を信仰する、妻帯世襲の半僧半俗の別当家に率いられた山伏の黒衣武士団と全国的な散在山伏の勧進組織で、ある意味アンダーグラウンドな組織。

熊野大衆と呼ばれて海賊として伊勢や京都に攻め込むなど、熊野悪僧とも呼ばれ、武蔵坊弁慶が悪僧だったというのも熊野別当「湛増」が熊野詣していた都の五条の新大納言に生ませた子供だったからではないかと言われています(御伽草子の『橋弁慶』より)。

紀伊田辺市 闘鶏神社「湛増弁慶の像」2022年5月撮影

⒉風葬から創造された「八咫烏」

上記でも触れた八咫烏ですが、本書では、民俗学に裏付けられた日本列島の宗教学では、

日本人の神観念の成立を、死霊から祖霊へ、祖霊から神霊への霊魂昇華説で説明する。したがって熊野三山の神々が死者信仰の影をのこしていても、なんら不思議ではない。

本書はじめに

として八咫烏の存在は「霊魂昇華説」の一環として説明できるといいます。

死霊が神霊に至るまでには、田の神、火の神など、列島にはさまざまな「中間段階的」民族信仰が色濃く残っています。このような中間段階の霊魂は「鳥の形」で現世とあの世を去来するという伝説があります。

なぜ烏(カラス)を代表とする鳥が現世とあの世を去来する霊魂ではないかという観念が生まれたかというと、古代列島では「風葬」が一般的だったから。古墳時代は権力者の墓=古墳はあっても庶民の墓が発見されることは極めて稀らしいので、これは風葬以外考えられないと著者はいいます。

また埼玉県の「吉見百穴」や鎌倉の「やぐら」など、横穴古墳は平安時代まで利用された風葬洞窟だったのではないかとしています。

このような風葬は「けがれ」とされる死体をはやく風化消滅せしめて、霊魂だけを祀ろうとする宗教意識から出たもの

本書第1章

だから、

風葬屍が「けがれ」であればあるほど、その風化をたすけて不浄を清掃する烏は神聖視されなければならない

同上

なので、カラスは聖なる生き物なのです。ちなみにチベット仏教では未だに風葬転じて鳥葬という風習があって屍は禿鷹の餌食になるらしい。ただチベット仏教の場合は列島のように「穢れ忌避」のような宗教的観念からではなく、苛烈な環境ゆえらしい(火葬するための薪もなく土に埋めても腐らず、そもそも土は固くて掘りにくい)。

なお、八咫烏の「咫(あた)」は「いやらしい」「にくにくしい」「いまわしい」の古語で「八(や)」その強調する接頭語なので、八咫烏は言語学的には「極めて不吉なカラス」という意味。京都の奥嵯峨に化野(あだしの)という地名がありますが、これも「あた」からくる名称で、平安時代には風葬屍のある穢れた場所だったらしい。

八咫烏の旗を掲げた熊野本宮(2022年5月撮影)

⒊「穢れ」をも受け入れる懐の深い熊野信仰

宮崎駿の「もののけ姫」は、徴税官たる武家・貴族などの支配階級と徴税される側の穀物栽培農民によって成立している「穀物国家」としての日本列島ではなく、その支配と被支配の関係に属さない列島版「反穀物の人類史」を描いたとも言えます。

「反穀物の人類史」に関する詳細は以下

もののけ姫の中に登場する「エボシ御前」。穀物国家から独立し女性やハンセン病患者も受け入れる啓蒙主義的な独立国家の女性統率者。

熊野三山も、列島文化のあらゆる差別の温床となった「穢れ忌避」の概念を持たない組織。女性もハンセン病患者も受け入れる、全ての人を受け入れる間口の広い信仰。特にハンセン病患者は著者によれば、

家族へかかる迷惑をおそれて終りを知らぬ旅にでたという。暮夜ひそかに巡礼の旅仕度をして家を出て、家族は村境まで見送る。文字通りの生き別れである・・・そのような旅に彼は家族のためをおもって旅立つのであり、家族はわが父母または兄弟を送り出すのである

本書第2章

とし不治の病でありつつ、ハンセン病患者の一部は微かな望みを持って熊野詣に向かい、著者の地元の方へのヒアリングでも過去実際に患者の熊野詣はあったらしい。

浄瑠璃や歌舞伎の題材となっている小栗街道で有名な「小栗判官」は、ハンセン病患者が熊野詣して健常者として蘇るストーリー展開ですが、これは熊野三山がハンセン病患者を受け入れていたから。中でも本宮近隣の湯ノ峰温泉では、かつてハンセン病患者が湯治できる施設も存在(小栗判官の詳細については以下参照)。

そもそもなぜ熊野三山が「穢れ」を受け入れるようになったかといえば、それは鎌倉時代に一遍上人が

熊野成道のときの権現の託宣に「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」とある言葉によったこととおもうが、すでに亡者の熊野詣の信仰があって、黒不浄とよばれる死の穢をきらわなかったことは事実である・・・そのうえ赤不浄・・・権現は嫌わずとしたのは時宗だった(同上)

とのように、時宗開祖の一遍上人への熊野権現の御託宣から。黒不浄(=死の穢れ)も赤不浄(=血の穢れ=動物の殺生や女性の月経)も、ということだから、あらゆる穢れを受け入れていたのです。

時宗の教えについて著者曰く

くるしめるもの、しいたげられたものにこそ、神仏の恩寵はあるという宗教の真髄をふくんでいたし、その底をながれるヒューマニズムは中世人の心をふかくうったにちがいない。

同上

そして小栗判官の説話について、

現代の奇蹟は医学の進歩で癩を治し、病めるものは社会全体の善意で、安らかな余生を保障することである。中世の奇蹟は癩を治すことはできなかったが、みなで土車をひと曳きずつ曳いて熊野へおくり、その善意で病めるものをなぐさめることであった。

同上

と述べています。

*写真:和歌山県 熊野本宮(2021年5月撮影)

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