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和歌山県の風土:鈴木さんのふるさと
日本全国で2番目に多い日本の名字「鈴木」さん(1位は佐藤)で、推定138万人で人口の1.44%(明治安田生命調査2018年推定他)だから日本人の100人に1人は鈴木さん。
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■発祥の地は「熊野」
その鈴木さんのふるさとは熊野で、海民ともいえる鈴木さんは、紀州を起点に黒潮に乗って日本全国に散らばったためか、特に東日本に多く、日本で2番目に多い名前となって普及。
アースダイバー(中沢新一著)によれば、港区芝に関して以下のように紹介し、東京(江戸)は古代より熊野からやってきた鈴木さんが多数移住していたらしい。
ここには紀州熊野の海民の世界との海の通路が開かれていた(ここには、紀州熊野からの鈴木姓をもった移住者が、古代からたくさん住んだ。だからこのあたりの古い住民の名字には、鈴木が多いのである。ちなみに、例の新宿の創建者である鈴木九郎も、はじめは芝に流れ着いた人だった)。
さらに鈴木さんは、大田区にかけて東京の海岸沿いに多く移住。
芝から目黒、大森、羽田にかけては、鈴木姓がとても多い。鈴木姓の人々の先祖の多くは、紀伊からの移住者であると言われる。紀伊半島の海岸部に暮らしていた海民が、幾波にも分かれて、途絶えることなく、このあたりに移住してきた。
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そして和歌山県の「ROOTS in WAKAYAMA」では、
鈴木姓が全国に広まった理由も、熊野神社と深い関係がある。それを裏付けるように、「熊野神社」が多く勧進されている東日本に「鈴木」姓が多い。鈴木を名乗る神官たちは全国に渡り、熊野信仰とともに各地に根付いた。そして、信頼を集めた鈴木氏にあやかり、また熊野への憧れを込めて、多くの人々が鈴木姓を名乗るようになったといわれている。
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明治時代以降、庶民に義務化された名字は自由につけて良かったので、
その際に庶民は、日ごろから慣れ親しんでいる熊野神社にあやかって「鈴木」を姓として採用する人が多かったというのは、海民としての熊野人の活躍はもちろんですが、最も影響を与えたのは日本全国を遊行した熊野修験や熊野比丘尼の存在だったのではないか、と思います。
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■第二の故郷「海南市」
鈴木さんの重要な第二の故郷は海南市。ここが藤白系鈴木氏の故郷で、実際には藤白系鈴木氏から日本全国に広まったという説もあるようです。鈴木の名前の由来は、
「鈴木」は熊野地方において神官を受け継ぐ家系であり、神武東征の折り天皇より賜った「穂積(ほずみ)」家の後裔だと伝わる。穂積とは稲の穂を積む「稲むら」のことを示し、その中心に立てる一本の棒を熊野では「聖木(すすき)」と呼び、転じて「鈴木」となったといわれている。
海南市には熊野古道「紀伊路」の重要な王子の一つ五躰王子「藤白王子」があり、ここを鈴木氏が神官として代々管轄していたのです(戦後まで)。
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平安時代末期、藤白王子は熊野三山を統括する熊野別当(詳細は以下ブログ参照)の支配下にあり、熊野八庄司(武士団)の一つ鈴木氏が、藤白に移住したといい、全国的に多い名字鈴木氏の発祥の地とされている。
藤白王子は、もともと斉明天皇(神話上の人物)が南紀白浜温泉(の湯崎温泉)行幸時に祠を建てたという伝説があり、奈良時代に聖武天皇が玉津島神社行幸時に使者が代参したらしい。
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近くには飛鳥時代に有馬皇子が南紀白浜温泉(の牟婁の湯)から飛鳥に送還される途中、ここで暗殺されらという伝説もあります。
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境内に残されている“鈴木屋敷”は、今は復元するべく工事中ですが、鈴木家25代・重秀が住み始めた邸宅で、その後、122代昭和17年まで鈴木家が住んでいたとのこと。
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このように、これだけ「鈴木さん」が多いのは、熊野の海民たるその生業と、熊野山伏による遊行の影響の結果だったということです。
*写真:海南市の夕景