イスラーム世界のユダヤ教『物語ユダヤ人の歴史』より
引き続き『物語 ユダヤ人の歴史』より、7世紀のムハンマドを始祖とするイスラーム教の拡散から20世紀のオスマン帝国滅亡までのイスラーム世界における、ユダヤ教の状況について紹介。
⒈イスラーム世界では、ユダヤ教は同じ一神教の仲間
イスラーム教は、ユダヤ教→キリスト教→イスラーム教の順序で、一神教がバージョンアップしてきた最新の一神教、というように自分たちを位置付けていたので、ユダヤ教・キリスト教に対しては、同じ神の啓示を受けた聖典をもつ一神教の仲間として敬意を払っていました(「アッラー」は「神」のアラビア語読みで、ユダヤ・キリストの神と同じ神様)。
したがって「コーランか、剣か」が象徴するような強制的なイスラーム教への改宗は、より正確には「コーランか、税(人頭税)か、剣か」。
イスラーム世界では、人頭税を払うことを条件にズィンミ(被統治者)の立場でユダヤ教徒・キリスト教徒の生命と財産は守られていたのです。
ただし、新しい教会やシナゴーグ(ユダヤ教徒の集会所&礼拝所)を建てること、古い教会やシナゴーグを修復すること、公衆の面前で宗教的儀式を行うこと、他人を改宗させようとすること、は禁じられていました。
その他諸々の制限や規則があったほか、何よりも人頭税が相応に重税だったし、経済的にもイスラーム教徒として活動する方が優位であったため、イスラーム教に改宗するユダヤ人も多かったらしい。
一方で、異教徒として生きていればジハードに参戦する必要がなかったので「徴兵から逃れられる」という隠れた特典もあったのです。
⒉イスラーム帝国で繁栄したユダヤ人社会
⑴パレスチナのユダヤ人社会
パレスチナでは、古代ローマ時代、第2次ユダヤ戦争(131〜135年)の結果、ハドリアヌス帝(76−138年)によってユダヤ人居住禁止となっていましたが、アラブ人は638年にエルサレムをビザンチン帝国から奪い、ユダヤ人の居住禁止を解除。
以降ユダヤ人社会は、自分たちだけのラビ(ユダヤ教における宗教的指導者)の神学校を建てるなど後述のバクダッドのディアスポラとは別の独自の動きはするものの、ユダヤ人社会の中心はパレスチナではなく、イスラーム帝国の首都(762年〜)でもあったバグダッドのディアスポラだったので、パレスチナは故郷とはいっても一地方の扱い。
そして十字軍が1099年にエルサレムを占領して以降、この地を巡ってイスラームとキリスト教の争いが2世紀にわたって続きます。この間、ユダヤ人はエルサレム市内に住むことはできませんでしたが(訪問はOK)、郊外に住み続けて十字軍から迫害をうけることもなかったらしい。
⑵バクダッドのユダヤ人社会(ディアスポラ)
中世において、イスラーム帝国はヨーロッパよりもはるかに進んだ先進地域の一つとして君臨し、中でも首都バグダットは最も文明の進んだ地域として繁栄。
同様に各地に拡散したユダヤ人社会の中でもバクダッドのディアスポラは、ユダヤ人社会の中心として、全世界のユダヤ人の標準となるタルムード(ユダヤ教徒の信仰生活の規則)を編纂。
ユダヤ人は一般に、彼らが生活している土地の言語をそのまま自分たちの話し言葉として採用するため、ユダヤ人の間でもイスラーム世界ではアラビア語が標準となります(ちなみに礼拝で使う書き言葉はヘブライ語で世界共通)。
ユダヤ人の伝統を初めて系統的に考察した有力なラビ、サアディア(882−942)は、アラビア語を使ってユダヤ教の法律をまとめ、聖書を翻訳するなど、ユダヤ教をユダヤ教として一人前にした人物。
ただし、イスラーム帝国が衰退期に向かった14世紀以降は、帝国が分裂したこともあってのカリフの権威をバックにした法と秩序は弱体化し、ズィンミの状況は悪化の一途をたどりユダヤ人社会含む異教徒への差別はひどくなり、キリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグが破壊され、暴徒の襲撃にも度々遭うなど・・・・。
このような状況下、生きていくためにイスラームに改宗せざるを得ない状況になったといいます。
⒊オスマン帝国のユダヤ人社会
別途詳細展開しますが、中世ヨーロッパ社会でユダヤ忌避の潮流が強くなるにしたがい、15世紀にアナトリア地方から勢力を拡大した強大なイスラーム軍事国家「オスマン帝国」領内へのユダヤ人移住が加速。
特に1492年のユダヤ人のイベリア半島からの追放は、シチリア、サルディニャなどの海外のスペイン領にも及び、キリスト教に改宗したユダヤ人(「マラノ(豚の意」という)でさえも16・17世紀にかけて次々にオスマン帝国領に避難。
新興の軍事国家オスマン帝国は、その急速な拡大に伴って大量の人材不足が露呈。その人材不足を補ったのが現地のユダヤ人であり、ヨーロッパから避難してきたユダヤ人。
特に商業面や貿易さらに法律的知識のノウハウが不足していたオスマン帝国ではユダヤ人のノウハウがピッタリマッチングできたのです。
オスマンの強力なスルタンたちは、イスラーム帝国末期の異教徒への差別的政策を撤廃し、ズィンミに課せられた特別の税を払えばユダヤ人社会内での自治も認められました。
オスマン帝国下のユダヤ人社会最大の特徴は、スペイン語の使用。
オスマン帝国自体は異種混合のコスモポリタンな社会だったため、多くの言語や宗教が共存。どの言語を使用するか、は完全に自由だったのですが、オスマン帝国内で最も大きな勢力を持っていたユダヤ人社会は、スペインから逃れてきたユダヤ人(セファルディムという)。
16世紀半ばまでには、多くのユダヤ人が医師、財政家、外交官、政治家、あるいはオスマン帝国の高官としての地位を得るまでになるなど、ユダヤ人社会はオスマン帝国にとって欠かせない非常に重要な人材供給源だったのです。
オスマン帝国の最盛期とも言えるスレイマン一世(1494-1566)の時代をドラマ化した「オスマン帝国外伝」でも金貸し業として登場した女性ユダヤ人、ドナ・グラシア(1510-1569年)は実在の人物。彼女は有力な実業家の一面だけでなく、最も有名なセファルディムの高官の一人だったらしい。
オスマン時代のパレスチナにおいては、ドナ・グラシアがイスラエル北部の街ティベリウスをスルタンから献上され、その周辺地域も含めた領主に(滞在はしなかったが)。
エルサレムでは1537年に、今でも旧市街を取り巻く大規模な壁の建設が始まります。さらにガリラヤ北部の町ツファトはユダヤ人の世界でも最も影響力のある宗教的中心地になるなど、オスマン時代のパレスチナにおいてもユダヤ人はしっかりとその足跡を残しているのです。
やがてオスマン帝国も18世紀以降衰退に向かうにつれ、スルタンの権威に基づく法と秩序は弱まり、ユダヤ人差別も強くなっていく、というのはイスラーム帝国のパターンとまったく同じ経緯。
法と秩序に基づく平和で治安の安定した社会というのは、強力な権威と実力に基づく国家体制あってこそ、というのはどの時代も同じです(詳細は以下参照)。
*写真:オスマン帝国 ドルマバフチェ宮殿(2023年撮影)