見出し画像

「大阪」都構想の賛否両論とは?

最近大阪関連の書籍をひたすら読み続けて、まだ終わっていないのですが「大阪都」構想の賛否両論について考えてみました。この結果、都構想の賛否両論とは、

「賛成=啓蒙主義者」と「反対=コミュニタリアン」の真っ二つの対決

だったのではと思います。過去の大阪関連の仕事(年間50日以上の大阪出張が数年継続)や、以前読んだ中沢新一「大阪アースダイバー」のほか、

以下、都構想発案者の橋下徹と彼を府知事に推した故堺屋太一共著の「体制維新」、江弘毅著「街場の大阪論」を読んでの仮説です。特に「街場の大阪論」は、とても視点が独創的で面白かった。おすすめします。

■啓蒙主義者=維新の会提案の都構想

【啓蒙主義が象徴する空間】

郊外・ニュータウン・チェーンストア・コンビニ・ファミレス・ショッピングセンター(SC)など

啓蒙主義は、近代化によって文明を発展させようとします。大阪はかつて中国の上海や米国のニューヨークのように、お上のいる北京・ワシントンや東京と違い、民主導の商都として江戸時代以降栄えていたわけですが、今はすっかり衰退してしまって、大阪府自体は人口も徐々に減りつつあります(大阪市自体は近隣からの流入で微増)。

画像2

(大阪市西淀川区佃:2021年10月撮影。以下同様)

大企業の本社機能も東京一極集中が進み、登記上は「大阪本社にしている企業も、実態は東京本社」も多いように感じます。

維新の会は、大阪の「統治機構改革」、つまり大阪の抱える行政の枠組みを変えることで、府と特別自治区・市の役割分担=組織の権限と責任を明確にし、意思決定ラインを効率化させるために市と府を一体化させ、大阪府全体の成長を目指そうとして都構想を企図しました。

一体となった行政は少数精鋭の組織として機能強化されて、資源再分配の機能が簡素化・迅速化。結果として最小のコストで最大限の行政機能をスピーディーに発揮できる組織に生まれ変わる、こんな感じでしょうか?

画像3
大阪梅田を淀川から望む

この結果、首長のビジョンとリーダーシップに基づく具体政策が可及的速やかに推進されて民の活性化も進み、大阪府全体あるいは関西圏全体の経済成長による付加価値増大で商都としての大阪を再生させ、機会平等に向けた教育無償化や困窮者の救済→再雇用化などを目指していたのでしょう。

画像5
大阪郊外の風景:豊中市

一方で街もこうやって効率性を追求すると、不動産価値の最大化に向けてデベロッパーが動きやすい街になります。そうすると商業施設づくりが上手な大手資本がやってきて先進的な商業ビル(+オフィスビル)を開発。

東京でいえば六本木ヒルズ(森ビル)や最近の日比谷ミッドタウン(三井不動産)などの新しい「街」。大手デベロッパーも街の人気のお店をテナントとして誘致するなど、結構頑張ってはいます。でも来街者の立場に立つと、何となく味気なく感じてしまう部分もある。

画像4
(大阪キタの中心:梅田阪急)

加えて郊外では、計画的な街づくりが推進され、きれいな分譲一軒家と高層マンションに大手資本のレストラン街や「イオンショッピングセンター」「ららぽーと」みたいなSCが円高でアジアに逃避した工場跡地にセッティングされますが、これも何となく味気ない。

でもとても清潔で先進的で便利なのは間違いない。まさに啓蒙主義=近代化の恩恵です。

■コミュニタリアンによる都構想への抵抗

【コミュニタリアンが象徴する空間】

個人経営のレストラン・居酒屋、商店、麻雀店、歴史の古い市場(豊洲市場よりも築地市場)など

都構想反対派は、文化人や藤井聡さんなどの学識者が多いのが、わたし的には意外でしたが、言っている主張は納得できるところも多い。

*表の反対理由
「大阪市」のアイデンティティ喪失。人間には効率的で、その方が経済的には良いとわかっていても、経済だけでないコミュニティの一員としての人間の顔もあります。「大阪市」というブランド価値が生み出す幻想を捨てきれない人はたくさんいると思います。

*裏の反対理由
スイッチングコストをかけて、わざわざ変えるほどの強力な意味がない、面倒くさい、という理由。

無残に大阪市が解体されてしまうことで、大阪市としてのアイデンティティはもちろん、とくにミナミをはじめとした大阪市南部のコミュニティが喪失するのではという心配もあります。

大阪市南部には大手資本によらない、(江弘毅が「街場」と呼んでいる)ネイティヴによる自然発生的な「街場」としてのコミュニティみたいなものがあって、不動産価値最大化などの効率性や経済発展よりもむしろ、大阪ならではの街場の空気感を大事にしたいというコミュニタリアン的発想が息づいています。

画像6

街場とは「知らない人なのに知っている人が多くいる場所」のことで、例えば声はかけあったり、居酒屋で談笑する仲だけど、実はお互いどんな人か知らない、みたいな「緩い空気感みたいな場」のこと。したがって自然に街ができて商店街ができて、緩い交流があって、という空間。なので地方の町みたいに「誰でも知合いです」みたいな濃厚な人間関係とも異なる空間。

画像7

近代化が進んでしまうと「列島の標準化」によって、効率だけを求めた全国展開の個性のない商業施設や飲食店ばかりのつまらない街になりますが、そんな街は街場ではありません。

これは私の住む関東圏でも実感できます。ニュータウンのような郊外には魅力を感じませんが、古くからある街や古くからある街で若者の店が自然発生的に生まれた街には魅力を感じる、というのは同じ。街は、地方であればシャッター街になってしまうでしょうが、それなりの人口を抱え、富裕層のいる首都圏ではちゃんとビジネスとして成立するところもポイント。

東京には立石や柴又や月島、あるいは代官山やダガヤサンドウなどなど、いくらでも街場と呼んでもいいような空間がたくさんあります。これも人口密度が高いからですね(福岡だったら大名地区、本場の大阪だったら「ウラなんば」などか?)。

こんな街場は知らない間に新しい店が生まれたり、知らない間に閉店していたり、なじみの店ができて何となく談笑したり、という感じでとても居心地が良い。こんな空間はとてもニュータウンやデベロッパービルでは望めません。

■それでも大阪都構想は進めるべきだった

それでも、都構想は頓挫してよかったのか?といえば、わたしは都構想は実現した方がよかったのでは、と思います。現役時代に勤務先の組織改正関連業務もしてきましたが、メンバーは同じでも効果的に組織を変えられれば、意思決定ラインや権限と責任が明確化され、間違いなく組織機能は強化されます。

橋下氏が目指していたのは、こうやってお上をミニマムにして効率化し、民間の活力を生み出そうというコンセプト。

これらは一見わかりにくいので住民投票という直接民主主義よりも、議会決議という間接民主主義マターのように感じます。

大阪都構想の場合、特別自治区と市を並列にして組織の仕組みを簡素化して教育無償化などの取り組みはちゃんとお金をかけて行政主導で推進すればよいと思いますが、街づくりに関しては行政は枠組みをきめて土台を作ってあげるだけでよい。何よりも都構想が目指したのは民間活力の再生であって「お上の力」強化ではありません。

画像1
(本書227頁)

あとは、今まで通り、ネイティヴによる自然発生的な街づくりは進むでしょうし、行政の方は、ほったらかしにして制度などに不都合があれば適宜サポートし、必要に応じて条例を変えてあげればよい(主体は民間であって行政ではない。それこそが都構想が目指していたものでしょう)。大手資本ももちろん並行的に開発するでしょうが一方で大手資本が目を向けないような立地に自然発生的に生まれるのが街場ではないかと思います。

むしろ怖いのは、このまま大阪が衰退して人口減少し、地方のシャッター街のように街場が成立する経済環境が喪失してしまう事です。

街場が成り立つのは、それらマイナーなお店を支えられる商圏(人口密度の濃さと富裕層の多さ)が存在するからで、人が減ってしまってはそもそもビジネスとして成り立ちません。これは地方都市の多くの街がシャッター街になっているのをみれば明白です。

東京にコミュニタリアンが嗜好する多くの街場が誕生するのは、圧倒的な人口密度と富裕層が存在するからこそではないかと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?