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「京都の風土」天龍寺・苔寺の禅僧:夢窓疎石の思想

夢窓疎石著『夢中問答』の解説本『夢中問答入門』を手掛かりに夢窓疎石の思想を探ります。


<『夢中問答入門』の概要>

京都の天龍寺や西芳寺(苔寺)などの庭を作庭した禅の名僧「夢窓疎石(1275-1351)」の『夢中問答』の神髄について、分かりやすく解説した臨済宗の住職にして宗教学者「西村恵信」の講演録。

<コメント>

『夢中問答』とは、京都嵐山にある臨済宗の禅寺「天龍寺」にて臨済宗の禅僧、夢想疎石(以下、著者表現の夢窓国師)が、室町幕府の初代将軍足利尊氏(1305-1358)の弟、足利直義(1306-1352)と交わした問答集。

本書は夢窓国師の『無中問答』を紹介しつつ、禅思想を臨済宗のお坊さんにして宗教学者の著者「西村惠信」が解説しているのですが、仏教初心者の私としてはなかなか理解が難しく、わかったようでわかっていない感じになってしまいましたが、一応自分の頭の整理用として以下メモリます。

禅宗の始祖:達磨大師(天龍寺)2010年撮影。以下同様

⒈夢窓国師とは

夢窓国師は、伊勢生まれ甲斐育ちで、源氏を祖とする父と平家を祖とする母のあいだに生れます。4歳の時に母を亡くして甲斐に移ってからは継母に育てられました。9歳で仏門に入り、18歳の時に奈良東大寺にて受戒して正式に僧に。

19歳のとき禅僧として、各地を放浪し常陸の国で悟りを開いたあとも50歳まで各地を転々としつつ修行を極め、この間夢窓国師の評判を聞いた鎌倉幕府の誘いも断り続けていました。

そして51歳に至り、後醍醐天皇に招かれ、京都の南禅寺に召喚され住職(住持)に(そののち鎌倉経由で京都臨川寺→西芳寺)。その後、足利氏の室町幕府に続くまで、天皇家・将軍家双方の良き相談相手として表舞台に立ちます。

夢窓国師は、ときの権力者、足利尊氏に対して、後醍醐天皇の怨霊を鎮魂するための寺の創建を勧め、この結果洛西にあった亀山殿を改めて天龍寺が建立され、その住職として就任。

夢窓国師は、いまでいうローマ教皇のような感じで、政治権力間の争いをなくし宗教宗派間の争いをなくすことで、この世の平和を築こうとした室町時代の聖人的な僧。

個人的には昔、観光で天龍寺の庭をみて夢想疎石という「庭師」はきれいな庭を作庭する人だな、という記憶しかなかったのですが、改めて彼の足跡を知ると、芸術・文化だけでなく聖俗双方の世界において多大なる活躍をしたお坊さんだったのです。

⒉世界に普遍的な夢窓国師の人間觀

夢窓国師は臨済宗のお坊さんで彼(というか禅宗)の人間観は、実はイスラーム教や哲学者プラトンやカントと似ているところが面白い。

人間の本来の姿は素晴らしいのだから、その本来の姿を邪魔している欲望や内面化した社会的因習などを取り払うべし

という考え方。

そのための手段(修行、神への祈り、哲学・節制・運動するなど)はそれぞれ異なるものの、人間本来の姿に戻れば、それぞれ異なる以下の手段によって目的を達成できる、と考えたのです。

自作

以下詳細です。

⑴夢窓国師の思想

一般的に仏教では、現世は煩悩に満ちた世界、ととらえているので

苦しみを消滅させる唯一の方法は、欲望の充足を望むのではなく、欲望そのものを消すことにある

と考えました(以下参照)。

本書を読む限り、夢窓国師も同じで「いかに自分の欲望をなくして、本来の自分になるか」という考え。

そうすれば現世の煩悩から解脱できる(=仏になれる)、と考えたのです。そしてそのためには坐禅するなどの修行が必要。つまり自力本願

さて、禅とは何かに対する結論的な答え。ここで私はいちおう禅とは「己事究明の行道」と断言しておきましょう。「己事究明」とは言うまでもなく、自己の追求ということであります。

本書183頁

そして、大乗仏教の一つである禅宗を信じる夢窓国師は、上座部仏教(本書では「小乗仏教」と表現)のように俗世間から完全に離れた仙人的な世界ではだめで、現実の俗世間の中で生きつつ悟りを開くべき、という点。

大乗仏教 :出家した人も在家の人も救われるという仏教(日本)
上座部仏教:出家した人のみが救われるとした仏教(スリランカ・タイ等)

⑵イスラーム教の思想

実はこの辺りは最近勉強したイスラーム教でも似たところがあります。その教えでは、

人間以外の存在は、みな無意識に反射的に存在しているため、神が創造したとおりに存在しているので賛美すべき存在。

しかし人間だけは意志を持つ存在なので、(神の意志として)神が創造した本来的な存在から切り離されている。だからこそ人間は神を信じ、神の教えを忠実に実行することで、本来の神が創造した人間に戻るべし、という教え(以下参照)。

⑶プラトンの心身二元論

古代ギリシャの哲学者プラトンの心身二元論もそっくり。ミックスすると「人間の魂は本来的に仏である」というべきか。

*魂(=善):永遠であって単一であり知性的なもの。「死」は、肉体が魂から分離されている状態のこと。肉体から分離されれば、苦痛や恐怖や快楽をもたらす五感からも切り離され清浄に認識できるようになる。したがって、死は肉体がなくなるという意味において「善」。

*肉体(=悪):有限であって多相的であり非知性的なもの。快楽を得る存在(肉体を通じて快楽は得られるから)。

⇨正しく知を愛し求める哲学者は、魂から肉体を切り離す訓練をしているのであり、つまりこれは「死に行くことを練習」しているということ(=死は恐れるものではない)。

プラトン著『パイドン』(以下参照)

⑷カントの道徳哲学

著者の西村恵信も若干言及していますが、ドイツの近代哲学者エマニュエル・カントの道徳論における人間観ともよく似ています。カントは人間は自由に生きるべきだとしましたが、その自由は私たちがイメージする自由とはまったく違います。

動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしている時の人間は、本当の意味では自由に行動していない。生理的要求と欲望の奴隷として行動しているだけだ。欲望を満たそうとしている時の行動は全て、外部から与えられたものを目的としている。この道を行くのは空腹を満たすため、あの道を行くのは渇きを癒すためだ。

M・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』142頁

つまり人間の俗(ゾク)な欲望は他律的なもので、自律的ではないとし、自律的に行動することこそ本当の自由であり、人間は自由を訴求すべき、という考え。

自律的な行動とは生物学的な人間の欲望(食欲・性欲・睡眠欲・承認欲求など)や社会的因習(名誉・お金など)ではなく、自分が「こうあるべき」と理性によって定めた法則に従って行動すること、としたのです。

⒊すべては実践=修行

実践しないことには何も始まらないというのが禅の考え。師の教えや経典などを学ぶのはあくまで、実践の参考にするため。学んだだけでは何も会得できない。

自分の頭で考え、自分で修行し、自分なりの納得感をもって実践しないと成仏できない、ということだから、まさに自力本願。そして悟りを開けば煩悩は消え、仏の世界と一体化。

このあたりは、論語の

 七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず

『論語』為政編

 と似ているようにも感じます。自分の思考や行動が、無意識的に自然に、世の中の道理と一致してしまう、というようなイメージ。

昨今流行りの行動経済学的にいうとシステム2(意識的思考)が完全に不要となり、システム1(反射的思考)に基づく行動だけで万事スムーズに合理的に生きることができる、ということか。

儒教(というか中国思想全体)は、人為の動きを自然の動き(天の法則)に一致させることが理想だとし、「自分の無意識的な動きが、そのまま自然の動きに一致する」というのがあるべき姿。

何となく仏教の世界の成仏のイメージも、諸行無常の世界の動きに順った状態を理想の姿としているように感じます。

⒋仏教の自力も他力も通る道が違うだけ

仏教の宗派には、自分の力で成仏すべきとした「自力本願」=禅宗と、阿弥陀仏の慈悲に頼って成仏されるべきとした「他力本願」=浄土宗・浄土真宗がありますが、夢窓国師は「他力」でも「自力」でも行く道が違うだけで目指すところは同じだ、としています。

たとへば天より、一雨をくだす時、諸もろの草木、その根茎枝葉の大小に随って、潤ひをうくること差別あるがごとし、云々(第74段)

(天から降る雨は一つであっても、それを受ける量は木や葉っぱの大きさによってそれぞれに異なると言われたように、受け手の質の個人差によって、おのずから教理の内容もわかれていくだけでしょう)

本書331頁

ひとそれぞれ、その人にマッチする教理を選択すればよく、自分自身の鍛錬によって救済を求めるのであれば自力だし、念仏を唱えて阿弥陀如来にすがるのであれば他力になるし、それは人ぞれぞれの実行できる・信じることのできる方法を実践すればよい、と考えていたのです。

人それぞれの天分の違いに対して、仮に設けられた方法の違いであって、どちらでもよいというのです。そういう自力と他力とか、あるいは難行とか易行とか言うような区別を、すっぽり包んでいる「大乗」を、日常生活の中で忘れずにいれば、自然に苦しみの世から、安らぎの世界へとで脱することができる、と説かれたのであります。

本書308頁

他力=浄土宗・浄土真宗:念仏→来世で成仏(真宗は現世利益も?)
自力=臨済宗・曹洞宗 :坐禅などで修行する→現世で成仏

哲学者、梅原猛によれば夢窓国師の思想は

夢窓の禅は、蘭渓道隆などによって伝えられた、いわゆる純粋禅と違って、空海の密教と同じように、他の仏教ばかりか、儒教や道教、神道までも受け入れるという性格が強く、そして彼自身は甚だ才能を持ち、芸術を通じて禅を表現するに道を大きく開いた。

『京都発見8』13頁

と夢窓国師のその柔軟な思想を表現しつつ、京都臨川寺にある夢窓国師の像を拝観し

夢窓ほど多くの人に慕われた人はいない。弟子の僧たちはもちろん、貴族からも庶民からも強く慕われた。おそらくその風貌の中にある、生きとし生けるものを哀れむ心が多くの人を惹きつけたに違いない。

『京都発見8』14頁

とその印象を紹介したのです。そして国師が亡くなった際には庶民が押しかけて大変なことになったという。

この西芳寺の庭を造るにあたって、多くの大名たちは争って寄付をした。足利尊氏の最も尊崇する夢窓の意を迎えようとするのは当然である。しかし庭を造ったのは戦乱で職を失った差別された人たちであった。夢想が死んだとき、そのような人たちが押しかけて困った話が公家の日記(『園太暦』)に見えている。夢窓は天皇は将軍ばかりでなく、差別された民からも親の如く慕われていたのである。

同32頁

以上、日本の真言宗の祖、空海(弘法大師)を尊敬していたという夢窓国師の思想は、ある意味民主主義的な思想もその中に包含されており、大雑把にいうと「人間の目指すべき幸福は皆一緒だけれども、その手段は人それぞれでよい」とした思想。

だからこそ、聖俗双方の権力者はもちろん、多くの一般庶民からも慕われたのでしょう。

本書の最後に著者が掲載した一休和尚の道歌も印象的でした。

分け登る 麓の道は 多けれど、同じ高嶺の 月を見るかな

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