「反穀物の人類史」国家を持たない人びと
「反穀物の人類史」からの知見。最後にして、やっと本題登場です。
■人類史の大半は、国家を持たない人々の世界
著者のいう通り、我々はどうしても「国家の攻防」といった政治権力の栄枯盛衰を歴史として勉強するので、あたかも国家が昔からこの世界中を支配していて、辺境に一部国家に属さない人々がいたように感じてしまいますが、1600年代(江戸時代初期)までは世界的には国家を持たない人が大半だったといいます。以下、国家を持たない人びとの世界の構成比。
こんな感じです。
*国家を持たない人びと
狩猟採集に基づく食料を主食として、国家に徴税されない人びと
*国家を持つ人びと
穀物を主食として、国家に徴税される人びと
著者のいう「反穀物の人類史」は、人類誕生以降1600年代までの大半の人びとの歴史ともいえ、これまでの私たちの歴史「穀物の人類史」は人類全体からしたら一部の人たちだけの歴史であったわけです。
なぜ私たちが、このような錯覚を起こしてしまうかというと、私たちは近代国家に生きているから。国家が当たり前の世界に生きている以上、この世界を当たり前の世界として認識してしまいます。「私たちは世界は自分で作っている」ので、国家を持つ人びとの視点であたかも人類の歴史が歩まれてきたと勘違いしてしまうのです。
そして国家を持つ人々の視点で区分すると、国家を持つ人々は「文明人」(と文明人の奴隷)で、国家を持たない人々は「野蛮人」という位置付けになります。
■国家を持たない人びと「野蛮人」の世界
特に古代国家は、栄枯盛衰の歴史であり、生まれては崩壊し、崩壊しては生まれる、というサイクルを繰り返していたらしい。国家に支配されていた臣民や奴隷の立場に立てば、国家の崩壊は彼ら彼女らにとって苦役や徴税からの「解放」を意味していたといいます。
この辺りは、個人的には、生死を度外視すれば、という条件付きであたかも国家がない世界の方が人間にとって幸せだったかどうかは、微妙なところではないかと思います。国家崩壊によって食糧のつてを一時的に失うわけですから、そのまま生きながらえられたかどうかは疑問です。
【臣民&奴隷】→生きられるけど、自由がない。
【野蛮人】 →死ぬ確率は高いけど、自由はある。
一方で著者によれば、国家は人口密集によって疫病はしばしば流行し、戦争に駆り出され、穀物が不作になればあっという間に飢餓に陥る世界でもある、という多死社会なので、この辺りは判断が難しいところではあります。
そして『第二の原始時代』と著者が名付けたごとく文明人が野蛮人化するのは一般的で「ユーラシア帝国の攻防」を著したクリストファー・ベックウィズによれば野蛮人は、
また
といいます。それでは具体的に野蛮人はどんな人びとだったのでしょう。それは、
近代以前の国家は全て穀物農業国家なので、その住民は農業が可能な沖積層以外には存在せず、支配しても意味のない広大な土地が国家の周辺には存在していました。このような後背地が、野蛮人の住処だったのです。
「野蛮人」は大きく以下の二つに分類可能。
(1)狭義の野蛮人
敵対的な遊牧民で、国家に軍事的脅威をもたらすが一定条件下では取り込むこともできる存在。こちらの方は事例に枚挙のいとまがありません。文明人との対比で歴史上多くの野蛮人が登場。
*メソポタミア文明→アムル
*ローマ帝国 →ケルト、ゲルマン
*中国歴代王朝 →鮮卑、匈奴、突厥、モンゴル、満族(女真)
*中世ヨーロッパ →ヴァイキング、フン、モンゴル、オスマン
○ヴァイキングに関しては以下ドラマをみると楽しみながら知ることができます。
(2)未開人
採集と狩猟で暮らしているバンドに属する住民。
狭義の野蛮人にとっての「文明人」は「家畜」という存在なので、彼らはしばしば国家に侵入してあらゆる物品、家畜、農産物、それに人間を強奪。ただし生かさず殺さず。
強奪し尽くしてしまうと「金の卵を産むガチョウを殺す」ことになってしまうので、強奪の定型化=みかじめ料を取る方向で戦略を変更するという、したたかさも備えていました。
一方で、文明人と野蛮人との関係は、交易相手としての関係でもあり、以下の交易品を交換しつつ生き残るための相互依存関係になったともいいます。
文明人の売り物:織物、穀物、鉄器、銅器、土器、陶器、職人が作った贅沢品
野蛮人の売り物:ウシ、ヒツジ、そして何より奴隷
このように反穀物の人類史は、もしかしたら本当のわれわれの歴史ではあるものの、国家のように文書としての史料や遺跡が殆ど残っていないために、その実態を知るのは相当困難なこと。
それでも「人間は国家と共に生きていた」とするのはマイナーな生き方だったというのは、より正確に歴史を知るという観点では、学校の教科書にもちゃんと反映した方がいいかもしれません。
「国家を持たない人々」に関しては、昨年末に紹介した「自由の命運」でも「不在のリヴァイアサン」として紹介されていますので、追って展開します。
*写真:東京ディズニーランド
マークトゥエイン号からのインディアンの風景(2022年撮影)
彼ら彼女らは「ネイティブアメリカン」ではなく「インディアン」
という呼称を好んで使います(以下参照)。