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「アフリカの風土」西アフリカにおける南北問題とは?

西アフリカの悲劇は、文化圏の違う北の内陸部(イスラーム圏)と南の沿岸部(キリスト教圏)を分断するように、欧州列強の植民地化によって国境が恣意的に区切られてしまったことです。

西アフリカの北部=内陸部はニジェール川流域で、16世紀にヨーロッパがサハラ以南に進出するずっと前の、7世紀後半からイスラーム文化が西アフリカ北部(=サハラ砂漠の南端=サヘル地域)に浸透していました。

一方でヨーロッパが進出した西アフリカ南部=沿岸部は、数百年続く奴隷貿易の舞台となりつつ、19世紀に始まる植民地化以降、ヨーロッパのキリスト教文化が浸透。

コートジボワール:アビジャン 聖パウロ教会。2024年2月撮影。以下同様

1844ー1845年にかけてのベルリン・コンゴ会議で「アフリカ分割」のルールが欧米列強に勝手に決められ、沿岸部の占領が自動的に後背地の所有権を生み出すとされたため、沿岸部の境界線をボーダーラインとして内陸に向かって植民地が分割。

その結果として1960年に植民地がその境界線のまま独立したことで、南北の二つの異なる文化圏が分断されたまま、複数の国家が誕生してしまったのです。

自然環境的にも、沿岸部の熱帯雨林気候と異なり、サハラ砂漠から続くサバンナ・ステップ気候で、農業よりも牧畜や交易を生業とする民が多かったのです。

同上

⒈西アフリカ北部=内陸部は、イスラーム文化圏

イスラーム帝国が、7世紀後半に北アフリカに拡散後、サハラ砂漠以南で産出する「金・銀」などを目的にサハラ砂漠を超えて、イスラーム化したベルベル人(北アフリカの先住民→サッカー選手のジダン・ベンゼマ、俳優の沢尻エリカなどのルーツ)が、サハラ砂漠を行き来していた影響で、アフリカ第三の大河ニジェール川流域をはじめ、サハラ砂漠の南端地域「サヘル地域」にイスラームが浸透。

『改訂新版 アフリカ史』第7章トランス・サハラ交渉史より

11世紀には伝統的な宗教を保持する王や土着の住民と外来のイスラーム商人とが居住を分けていたという「ガーナ帝国」が形成されます。ガーナ帝国は金や銀、塩などの交易品に関税をかけることで収益を上げていたらしい。

13世紀には没落したガーナ帝国に代わってマリ帝国が台頭。マリ帝国に至ってイスラームは深く浸透し、マリ帝国からメッカへの巡礼が繰り返されたと言います。

このようにサヘル地域は、イスラーム文化が浸透した地域で、西アフリカ沿岸部とは全く異なった文化圏だったのです。

⒉西アフリカ南部=沿岸部はキリスト教圏

ヨーロッパが西アフリカ沿岸部に進出した当初は、平等と友好関係の時代でポルトガルとアフリカの王の間で大使の往来があるなど、平穏な時代。

ところが、16世紀に中南米での農業経営で農園労働に向かないインディオに代わり大量の労働力が必要になると、西アフリカ沿岸部から奴隷を連れてこようとする動きが生まれます。

歴史的に奴隷は、この時に始まったのではなく、日本古代の奴婢はじめ世界各国で奴隷は存在し、中世ベネチアなどでも主要な交易品?として大切に扱われていました。原則として戦争に負けた側の住民は奴隷化されるのが、ノーマルな人類の歴史だったので、その分奴隷貿易も古代から盛んだったのです。

したがって、当時のヨーロッパ人がアフリカから奴隷を連れてきて中南米の農園で働かせようという発想は至って自然なことだったかもしれません。なお、奴隷は直接ヨーロッパ人が奴隷狩りをしたのではなく、アフリカの王や首長、商人たちを介してヨーロッパ人が奴隷を買い上げていたのです(一部の首長は反対していたが)。

同上:第9章 大西洋交渉史より

19世紀に入り、啓蒙主義がヨーロッパに浸透し始めると、近代哲学の大家ヘーゲル、近代植物学の先駆者カルル・リンネをはじめ、国富論のアダム・スミスや経験論のデイヴィッド・ヒュームなどのヨーロッパを代表する知識人を中心に、アフリカ人は単なる奴隷ではなく劣等人種として「科学的?」に位置付けられます(現在の遺伝学では生物学的根拠全くなし)。

この時代は産業革命の時代でもあり、アフリカ人は劣等なる人種といえども単なる奴隷ではなく、賃金労働者として搾取すべき対象に変化。

この結果、アフリカに対するヨーロッパの視線は、単なる奴隷供給地ではなく、文明化の対象として位置付けられ、キリスト教布教活動や啓蒙主義が推進されたのです。

未開、野蛮で自己発展の能力に欠けるアフリカ人およびアフリカ社会を教化し、文明開花させることはヨーロッパ諸国の責務である  

『アフリカ社会を学ぶ人のために』松田泰二編:117頁

このような歴史的背景のもと、西アフリカ沿岸部では、ヨーロッパ人たちが入植し始め、キリスト教化がはじまります。

フランス植民地では同化政策がとられ「一段ランクの低いフランス人」という位置付けのもと、徹底したフランス化が強要されます(アフリカ人エリートの一部は弁護士や議員にもなった)。しかしその実態は、フランス化する事でアフリカ人からの徴税と労働力を強制的に調達する事。実際入植したヨーロッパ人には税金を課しませんでした。

一方でイギリス植民地では、同化政策ではなく、間接統治政策が採用されます。現地の首長がいようがいまいが、それぞれの地域にその地の指導者として首長を立て、その首長に現地を統治させるのです。この手法はアフリカでは例外的に国家機構を持っていたナイジェリア北部で大成功し、イギリス植民地政策のスタンダードとなったといいます。

この結果、ナイジェリアでは、伝統的部族社会の南部はキリスト教伝導団による西欧的学校教育を施す一方、イスラーム国家主体の北部は、そのまま間接統治の延長として西欧文化の注入はあえてしなかったのです。

このように西アフリカではヨーロッパ人が進出した沿岸部中心にキリスト教が浸透。

⒊西アフリカの現代史は南北の権力闘争の歴史

北部イスラーム圏と南部キリスト教圏は、民族問題などとも複雑に絡み合って、国内権力闘争を生み、政権交代は「公正な選挙」というよりも、軍事クーデターや名ばかり選挙によって、政治権力が継承されます。

⑴コートジボワールの場合

コートジボワールでは南部出身のキリスト教徒、初代フェリックス・ウフェ=ボワニ大統領が西側、特に旧宗主国フランスと連携して自由主義的政策を推進するなど、安定した政権を長期にわたって実現していましたが、大統領がなくなって以降、幾度も紛争やクーデターが勃発。

ウフェ=ボワニ生誕の町ヤムスクロにある世界最大の教会「バジリカ」

現在は北部出身のイスラーム教徒アラサン・ワタラが大統領で、三選禁止ルールでで野党が反対する中、強引に出馬して三選。来年2025年の大統領選挙でまた一悶着ある可能性あり。

コートジボワール:アビジャン プラトー地区のモスク

私自身コートジボワール北部に足を踏み入れたいと思いましたが、特にブルキナファソとの北部国境地帯は、外務省の渡航中止勧告レベルの危険地帯となっているのでかないませんでした。

⑵ナイジェリアの場合

アフリカ最大の人口をもつ大国ナイジェリアは、300を超える民族が居住していますが、大枠では北部のハウサ人、南西部のヨルバ人、南東部のイボ人で全人口の60%を占めます(とはいっても選挙問題で、数十年間国勢調査ができない状況のため、正確なデータはない)。

特に北部と南部(=南西部+南東部)の違いは大きく、南西部を代表する政治家であったO・アオロオ曰く

南西部と南東部のナイジェリアの違いは、アイルランドとドイツぐらいの違いがある。さらに北部ときたら、中国との違いほどもある。

そんなナイジェリアですが、独立以来幾度も軍事クーデターはじめとした政変が相次ぎますが、基本的には人口の多い北部=イスラーム圏が、教育水準は低いものの政治的には強く、教育水準は高く原油も算出する南部を支配する、というような構図。

現在は、南部出身のイスラーム教徒ボラ・ティヌブが、イスラームの牧畜民フラニ人のムハンマド・ブハリから引き継いで大統領に就任するなど政治的なイスラームの優位性が継続。

一方で一部過激化したイスラーム勢力「ポコ=ハラム」が北部で跋扈し、直近数年間で周辺国ニジェールやマリなどで旧宗主国フランスからの離反を狙ってロシア・ワグネルも絡みつつイスラーム軍事クーデターも勃発するなど、不穏な雰囲気が北部イスラーム圏に漂っています。


以上のように、西アフリカは植民地区割の影響で南北に伸びる国境と、文化圏が自然環境や歴史的な生業などと連動して東西に伸びる文化圏が交錯する、困難な政治運営が必要な諸国なのです。

*写真:男子サッカー、ナイジャリア代表オシムヘン(2024年2月撮影)

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