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「京都の風土」平安京をつくった和気清麻呂

来月10月から京都をフィールドワークするにあたって、哲学者 梅原猛の『京都発見』全9巻を通読中。

これが実に面白いので今後、それぞれのテーマごとに紹介したいと思いますが、まずは和気清麻呂について。

和気清麻呂(733-799)
日本の古代史の中で、奈良時代から平安時代の転換期に活躍した人物。天平5年(733)備前国藤野郡(現和気町)に生まれた。桓武天皇の信任を得て近畿地方の河川改修や開削を行って治水に努め、数多くの土木工事をなした。美作・備前国造として郡民の負担軽減を図るなど民生の安定と発展に努めた。常に誠実に業務をこなし摂津大夫、民部大輔、中宮大夫、民部卿を歴任した。特に至誠を貫いた道鏡事件、及び平安遷都は彼の立案であったことなどは史上有名。

和気町HPより

⒈京都遷都の立役者

実は京都がなぜ都になったかというと、和気清麻呂が桓武天皇にこの地(当時は葛野の地)をすすめたから。

『日本後期』によれば、長岡京新都が10年たっても、まだ建設に至らず、費用だけが莫大になってしまいました。

清麻呂は、桓武天皇を遊猟にお誘いし、葛野の地にお連れします。そこで清麻呂は桓武天皇に「都はこの地でいかがでしょうか?」と進言。

天皇はこの提案を採択し、延暦13年(794年)に詔して遷都。名称を「平安京」としたのです。

そして清麻呂は平安京建設の最高責任者「造営大夫」に任ぜられ、都づくりを担う。

大分県 宇佐八幡宮 2011年撮影

⒉近代国家「日本」の神となった清麻呂

維新政府が近代国家「日本」を創造するにあたり、その精神的大義名分として活用したのが神道。

神道を新しい国家宗教「神道」として成立させるための、さまざまな仕掛けを維新政府が工夫したのですが、その一つが和気清麻呂の神格化。

清麻呂が京都を都にしたから神格化したのではありません。清麻呂が皇統を守ったから神格化したのです(詳細は後述)。

さて著者の梅原は、「古い神道」と維新以降の「新しい神道」との違いを興味深い事例で紹介してくれてます。

古い神道では個人が神として祀られるのは、菅原道真など個人が死後に怨霊となった場合のみですが、新しい神道では、戦国大名の神格化に倣って、神国日本に貢献した人物を新たに「神」として祀るようになったというのです。

伝統的な日本の神道によれば、個人にして神に祀られるのは、御霊神社に祀られる早良親王や、天満宮に祀られる菅原道真のように、無実の罪で、あるいは流罪、あるいは死罪になり、強い怨念を残して死んでいった、生前にも何らかの力を持った人間に限られていた

しかし豊臣秀吉を祀った豊国神社や徳川家康を祀った日光東照宮の建造以後、怨霊ではない個人を神として祀る新しい神道が興った。護王神社の創設はこのような新しい神道の神まつりを過去の人間にさかのぼらせやものであるといってよかろう。

『京都発見7』54頁 

まさに文中の護王神社(京都市上京区)が、和気清麻呂を神として祀った神社。

明治維新以降、東郷平八郎を神として祀る東郷神社、乃木希典の乃木神社など、明治の軍人たちが見事に神となって祀られるのは、明治維新以降の神道の特徴といっていいかもしれません。

⒊神格化した清麻呂は、神仏習合の推進者だという矛盾

維新政府は神仏分離令によって廃仏毀釈を推進、つまり1200年以上続いた日本の伝統「神仏習合」を否定して神と仏の分離を推進したのですが、維新政府が神格化した清麻呂は「神仏習合の推進者だった」というのが面白い(いとおかし)。

当時の称徳天皇(=孝謙天皇)に対し、道鏡一派の大宰府神主「中臣習宣阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)」が「道鏡を皇位につけたならば、天下泰平になろう」という宇佐八幡神のご神託があったと奏上。

宇佐八幡宮

このご神託を確かめるために八幡宮の総本山「宇佐八幡宮」(大分県宇佐市)に派遣された清麻呂は、宇佐八幡神から「・・・臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ・・・」との神託を聞き、皇統を維持すべきとして称徳天皇と道鏡に報告。

この結果「そんなわけない」と否定されて大隅半島に清麻呂は左遷されてしまうのです。

護王神社の和気清麻呂の生涯を綴った絵巻風の額(2023年10月撮影)

実は清麻呂は、宇佐八幡神からもう一つ神託されていて、

社稷を安泰にするために一寺を建ててほしい

と依頼されます。

そこで清麻呂は称徳天皇に依頼し、その後、桓武天皇の代になって、やっとその依頼を許され、河内に神願寺を建立。神願寺は824年、高雄の和気氏の氏寺、高雄山寺と合併して神護国祚真言寺、すなわち神護寺という定額寺になったのです。

十円札にもなっていた和気清麻呂(護王神社にて)

皇統を排してみずから天皇になろうとした道教のたくらみを排除して皇統を守ったことで清麻呂は維新政府に神格化されたのですが、一方で神仏習合のルーツともいうべき宇佐八幡宮の仏教への思いを具現化したのも清麻呂だったのです。

戦前の教科書「小学国史」にも採用されていた和気清麻呂(護王神社にて)

ちなみに宇佐八幡宮の神託捏造など、道鏡悪人説が史実かどうかは怪しいらしいので、もしかしたら維新政府が清麻呂を神にすべく仕組んだフィクションなのかもしれません(これは個人的憶測)。

⒋天台宗「最澄」、真言宗「空海」のパトロンだった和気一族

比叡山延暦寺は、最澄を始祖とする天台宗の一大仏教勢力となりましたが、その最澄を世に送りだしたのが和気清麻呂とその息子である広世&真綱。

退廃した奈良仏教の大立者、道鏡を不倶戴天の敵とした清麻呂は、和気氏の氏寺、高雄山寺と平安京を挟んで向かい側にある比叡山に籠って一人道を求める最澄を、桓武天皇に紹介(ここは著者の憶測ですが)。

清麻呂の遺志を継いだ息子、和気広世(医官和気家の始祖)は、高雄山寺にて南都7大寺の高僧を招いて最澄を紹介。著者曰く

孤独な仏教者の颯爽たる英姿を世間に初めて見せたものであろう。・・和気清麻呂、広世、真綱の父子兄弟は孤独な山僧最澄の最大のパトロンであり、天台宗発展の基礎を作った恩人であるということができる。

『京都発見7』58頁

それでは和気氏の氏寺高雄山寺(のちの神護寺)は、天台宗の寺かといったら実は違います(今は真言宗)。というのも、和気氏は最澄だけでなく、空海のパトロンでもあったから。

中国留学から帰国し、九州→和泉(大阪南部)に滞在していた空海を京都に誘ったのは、空海の持ち帰った密教の経典を欲していた最澄。

最澄は自分のパトロン和気氏に依頼して空海を和気氏の氏寺、高雄山寺に滞在させます。そして空海を尊敬した和気真綱は、空海を師として最澄を招いて灌頂を受けさせたのです。

その後、いろいろあって最澄と空海は絶交しましたが、のちに空海は嵯峨天皇から高野山や東寺を賜り、高雄山寺を後に。

もし高野山や東寺が空海に与えられていなかったら、高雄山寺、いまの神護寺は真言宗の総本山になっていたかもしれません。

高野山 恵光院 2022年撮影


*写真:京都市 護王神社(2023年10月撮影)

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