「滋賀の風土」比叡山延暦寺と三井寺の抗争
滋賀県の風土は、ときの権力からは独立した、さまざまな自治勢力が展開している地域であることに気づきます。
一番有名なのはなんと言っても天台宗の勢力で、日吉大社と神仏習合した比叡山延暦寺=山門。
そしてその対抗勢力としての三井寺(園城寺)=寺門。特に山門は全国有数の寺領を持つ宗教団体で自治勢力という枠組みをも越えた強大な存在だったらしい。
さらに滋賀の南方には侍衆(さむらいしゅう)と呼ばれた甲賀忍者や一向宗(浄土真宗)の近江門徒、そして。さらに歴史が下ると近江商人、というように滋賀県は自治意識の強い土地柄。
今回はこのうち、天台宗を取り上げます。
天台宗は、最澄=伝教大師(西暦766年または767年-822年)を宗祖としますが、その後弟子たちの権力闘争によって大きく二つの勢力に分かれます。
具体的には、
①最澄の直弟子だった円仁=慈覚大師(794-864)の勢力=山門→比叡山延暦寺と、
②最澄が後継者と指名した初代天台座主義真(781−833)の弟子、円珍=智証大師(814-891)の勢力=寺門→三井寺(園城寺)(詳細は梅原猛著『京都発見9』参照)。
今の大河ドラマ「光る君に」でも、奈良興福寺の定澄(935-1015)が僧兵を引き連れて藤原道長(966-1026)に脅しをかけたように、
山門も比叡山の麓にある日吉大社と一体となって日吉大社の神輿を使って何度も京の権力を脅すなど(興福寺は春日大社の「春日の神木」)、
中世ヨーロッパのローマ教皇庁(「破門」というツール)のように、神仏を活用してときの権力に抵抗する独立した組織でした(これを強訴という)。
⒈天台宗とその宗祖「最澄」
最澄は比叡山の麓、坂本の生まれで今でいう在日韓国人(渡来系)と言われています。最澄は都が京都に遷都する前から比叡山に籠り、天台宗を開きましたが、もともと天台宗は天台の僧だった鑑真(688-763)が中国からもたらしたお経がベースになっているので、実はそのルーツは鑑真だったと言われています。
京都が都になったのは、和気清麻呂が(733-799)この地を桓武天皇(737-806)に勧めたからですが、たまたま比叡山は京都の北東にあって、北東は京都からみると鬼門と呼ばれる位置。この結果、比叡山が幸運にも聖地として重要視されることになったわけです(というか、そのように最澄が画策したのでしょう)。
最澄は、他の名増の事例にもれず「営業が得意な人たらし」だったので巧みに桓武天皇に取り入って気に入られ比叡山は大いに繁栄。南都六宗(※)を煙たがっていた桓武天皇にとっても最澄がもたらした新興宗教(=天台宗)は、都合が良かったのですね。
比叡山がもともと山岳信仰の地だった影響もあってか、はたまた最澄自身が修験者で現世利益をもたらす術に長けていたからかは不明ですが、天台宗は現世利益を実現する修験的な密教と融合し、次第に密教化していったといいます。→これを台蜜(たいみつ)という
⒉山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の抗争
そんな密教化した天台宗は、上述のように円仁派と円珍派に分裂します。闘争の結果勝利した円仁派が比叡山延暦寺に残り、敗退した円珍派が山を下って三井寺(園城寺)に下りますが、その後も両者の闘争はずっと続きます。
⑴山門について
山門の始祖:円仁=慈覚大師(794-864)は、権力闘争に明け暮れる延暦寺から逃れるため比叡山内に新たに横川(よかわ)という聖地を新設して横川に籠ります。弟子たちには貴族などの俗権力とできるだけ関わらないよう伝え、弟子たちは、その教えを守り続けます。この結果、横川は金欠になって疲弊・衰退。
ところが円仁派の中に長浜市虎姫出身の良源(912-985。慈恵大師・元三大師)という台密を完成させた名僧が生まれます。
良源は「俗に関わるな」という円仁の教えに反し、摂関政治を始めた藤原忠平(880-949)やその次男にして藤原道長の祖父たる藤原師輔(909-960)に取り入って重用され、966年には天台座主となり、円仁派が勢力拡大。この結果横川は復興し、今でも比叡山の横川を歩くと元三大師の名がところどころに登場してきます。
更に良源は藤原師輔の子息を出家させて自分の後任にするなど、比叡山と天皇家や平安貴族とのどっぷり関係は良源から始まったと言われているくらい。
この良源改革は絶大で、ときの権力は比叡山に容易に手出しできなくなるなど、良源は比叡山にとってなくてはならない最重要の名僧の一人となったのです。
宗教といえども、いかに権力を手に入れ、権益=富の源泉を手にいれるか、がその存続と繁栄に重要で「トップの能力がその組織の栄枯盛衰を左右する」というセオリーは、宗教の世界でも政治権力や企業とまったく同じ。つまり名僧とは優秀な大統領であり、優秀な経営者なわけです。
良源の死後、良源が復興した円仁派(山門)と既存勢力の円珍派(寺門)は、お互い摂関家を巻き込んで闘争が激化し、円仁派は円珍派を比叡山から三井寺=園城寺に追いやります。
⑵寺門について
寺門の始祖:円珍=智証大師(814-891)は、山門の円仁が活躍したのち、良源が横川を復興する前に活躍した天台宗の名僧で、空海(弘法大師)の甥という仏教界の名家で誕生。15歳で比叡山にて出家し、最澄の後継者にして初代天台座主義真のもとで修行。比叡山での難行の後も熊野で修験の荒業を完遂。
そして修験と天台宗を融合させた神仏習合の世界を発展させます。その縁もあってか、もともと修験者でもあった教待和尚(伝説の人)が住んでいた三井寺=園城寺に円珍がやってきて意気投合し、円珍が比叡山延暦寺に所属しつつ、園城寺の長吏(住職)を兼任。
園城寺=三井寺について、かつてその近隣には天智天皇(626-672)が開いた大津京(667−672)があり、大津京にあった崇福寺は園城寺に統合されたこともあって、園城寺は天智天皇ゆかりの寺になったといわれます。
園城寺の別名である三井寺の名称の由来も天智・天武・持統三皇の浴井の閼伽井から名付けられた名称で、三人の天皇をここの産湯で清めたという伝説も。そして園城寺は修験と融合し、
ということで、寺門は延暦寺とは別途、台密の雄としてその座を確立していったのです。
⑶権力闘争で分裂するのは宗教の常(というか組織の常)
権力闘争によって宗教組織が分裂するのは宗教の常。以下類例。
①真言宗
空海=弘法大師(774−835)が始祖の真言宗の場合、真言宗が密教化し、おまじない宗教化した東密の世界に浄土宗的な来世利益を加味した覚鑁=興教大師(1095−1144)が権力闘争に負けて高野山を下り、根來寺を開創して新義真言宗の始祖となります。新義真言宗は私たちが初詣にいく成田山新勝寺や川崎大師、西新井大師などのルーツでもあります。
②浄土真宗
戦国時代に信長と和解した西本願寺(本願寺派)と信長との和解を拒否した東本願寺(大谷派)に分裂。
(京都 西本願寺 飛雲閣。2024年2月撮影)
③日蓮正宗
日蓮正宗の信仰集団「創価学会」が1991年に日蓮正宗から破門される.
どの宗教も権力闘争でタイヘンです。
さて山門は、延暦寺を拠点に勢力を拡大し、日本全国に大量の寺領を保有するととも僧兵を用意し、俗の権力が干渉できないほどの自治能力を身につけます。
⑷比叡山延暦寺(山門)も園城寺(寺門)を何度も焼き討ちしていた
この結果、戦国時代に入ると織田信長が言うことを聞かない山門に対して比叡山焼き討ちを仕掛けます(1571年。天台宗的には「元亀の法難」)。
実はこの焼き討ち、信長の大悪事として有名ですが、信長だけでなく、平安時代から焼打の被害者たる山門自身が寺門に対して何度も繰り返してきたことだったのです(1081年永保の焼討、1120年保安の焼討、1163年長寛の焼討、1214年建保の焼討、1264年文永の焼討、1319年文保の焼討・・・)。一方で寺門も対抗して比叡山を焼討。
現在、何度も比叡山の山門の焼き討ちにあったという三井寺に私たちが伺うと、その名残として山門派の弁慶(1155−1189)が寺門との抗争の際に寺門の鐘を奪って引き摺ったという鐘「弁慶の引き摺り鐘」が現存しています(本当かどうかは不明)。
以上、天台宗が「法難」と呼ぶ焼討は、自分たち自身がその内部抗争で何度も引き起こしていたと言うのですから驚きです。
⒊比叡山延暦寺の「不滅の宝燈」は仏教由来ではなかった
ちなみに延暦寺の根本中堂にある伝教大師以来、(山形の立石寺経由で)続くという「不滅の法燈」ですが、五来重著『修験道入門』によれば、
これは本来仏教の伝統としては邪道なものだそう。そもそもインド仏教は火を神聖視する拝火教を外道としてしりぞけたそうで、五来は
と疑問視しています。ところがなぜ日本仏教が火を神聖視するようになったかというと、これは比叡山に仏教が入る前からあった山岳宗教=修験道の名残りから。
五来重著『仏教と民俗』によれば、もともと日本の原始宗教では「火」は、神聖視され、その不滅性が要求されたという。したがって山岳霊場信仰では、霊場信仰の中心が「不滅火」になったという。これを比叡山に置き換えれば、まだ仏教が来る前の比叡山霊場信仰の辺りから根本中堂の不滅火がきているのかもしれません。
以上、いろいろ調べてみると私たちの常識には実はそうでもなかったことが多くあり、その驚きが歴史などの学問を勉強するモチベーションになります。まさに勉強とは世の中の常識を相対化することで喜びを見出す、と言うことかもしれません。
以上、次回は甲賀忍者について紹介したいと思います。
*写真:比叡山延暦寺