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語学学習していると臨界点を超える時が来る(経験談)

語学に王道なしとはよく言ったもので、王道は「ひたすらやり続ける」これに尽きるように思う。というか、それしかないのだ。ひたすら学習し続けると、ある日突然目の前がパーッと開けてしまう瞬間が訪れる。しばらくするとその驚きはなくなり、再び低空飛行のままとにかく学び続ける。学び続けるとまた突然、初回とは違う第二の視界が急に開けていく。そうやって段階を踏んでいくと、高い山を一つ乗り越え次のもっと高い山に登っていたことに後から振り返って気付くのである。

別の言い方をすれば、ある年を境に突然花粉症になってしまうのと同じように、水面下で溜まっていたものがある時突然溢れ出てくるようになるのが語学学習の成果である。臨界点を超えると、学んでいた言語が自分の口から手から急にほとばしり出る時が来るのだ。そしてその言語が耳にもスルスルと入ってくる。長距離を走ろうとして最初は苦しくても、ある瞬間を超えると急に体が軽くなり呼吸が安定するのと似た感覚とでもいうのだろうか。逆にいえば、いったん苦しまないと一線を越えることが出来ないのが語学学習でもある。そしてその先のレベルへ到達したければ、さらに苦しい坂道を登り続けるしかない。登り続けると、壮大な景色が開けて眼下を見渡せる日がやってくる。達成感を覚える瞬間が訪れるのだ。もちろん、それで終わりではないのだが。

30歳を過ぎてからイタリア留学したこともあり、中学生の頃の英語学習でのスポンジのような吸収力とは無縁の学校生活もかなり大変で、最初の5ヶ月ぐらいが最もキツかった。

日本である程度イタリア語を勉強していたおかげで最初の町マンチャーノでは、初級ではなくいきなり中級クラスに入ったのだが、生徒は私とオランダ人の初老マダム一人だけ。

ほぼマンツーマンに近いような授業で、授業中に覚えることも質問に答えることもひっきりなし、午前中みっちりの授業を終えると宿題をどっさり持ち帰り、ホームステイ先でお昼を食べ、午後からの課外授業前にどうにか少しでも宿題を進めようと思ってもあまり進まず、外出時間があっという間に来て近隣の村の見学や体験ツアー、観光等々に参加、夕方遅く戻り夕飯を食べたらもう体力は残っていないのだ。時には夜に皆でアグリツーリズムなどへ郷土料理を食べに行くといったこともあった。

マンチャーノでは洗濯機も使用禁止だったので、洗濯はいつも手洗い。当然ジーンズも浴槽で手洗いしなければならなかった。身の回りのことをやりながら、時には家主が飼っているおデブなトラ猫が私の部屋の床におしっこの池を作ったり、シャワーを浴びようとした時に限ってシャワー室にウンチを置いて行ったり、夜明けにいきなり私のベッドにドーンとダイブしてビックリして目が覚めると、巨体を丸めて布団越しに私の上でドッシリと眠り始めたりで、家主はこのネコに一体どんな教育をしてきたんだろうと思いながら何となく寝不足の日々が過ぎて行くのだった。そうやって、朝の授業で先生に「マキコ!宿題は?」と問われて下を向くしかない1ヶ月が続いた。宿題ができていなかったことを、ネコや午後の課外授業や洗濯のせいにはできない。オランダ人のマダムはいつもきちんと宿題をこなしてレッスンに参加していたし。覚えが悪い私に対し、あまりに先生が厳しくて泣いた時もあった。自己責任だから仕方がないことではある。下を向くだけでは何も進まないので、スパルタ教育を受けながら、出来なかった宿題の内容をその場で苦しい思いをしつつ答えていくのが日課となっていた。それにしても毎日ヘトヘトだったなと今でも思い出す。

その時のノートは今でも大切にとってある。とはいえきちんと見返してはいないので、いつかちゃんとまとめておきたいと思ってはいる。イタリア語の教え方の参考にもなりそうなので。

本当にキツかったが、自分がその1ヶ月でイタリア語をわかるようになったのかといえば、正直よくわからなかった。疲れすぎてもいたし、習得度合いを自覚できないのだ。新しい言い回しなど、確かにそれまで知らなかったイタリア語の使い方を多く学んだが、それを使いこなせるようになっていたかといえば正直自信がなかった。ステイ先の近所には古い絵画の額縁や彫刻などの修復を生業としているイタリア人女性もいて、彼女のそばで作業をいろいろ見たり教わったりするのが楽しかったが、果たしてその時間にイタリア語が上達したのかといえば、自分ではよくわからなかった。喋るより手を動かすか見ているほうがその時間は長かったから。

もともとおしゃべりなタイプではない自分は、人の話を聞くことのほうが多い。人の話を聞くほうが基本的に好きなのだ。女として生まれた割には、取り止めもなく喋り続けるというのが苦痛なのである。だから、ステイ先の家主さんには「あんたはあまり喋らないしイタリア人とたくさん遊ばないからイタリア語を覚えないのよ」とも言われていたものだ。ベファーナそっくり(知らない方はググってみてください)の顔付きの少し意地悪な家主さんとは特段話したい気がしなかっただけでもあったが、何でもいいから喋る練習をするべきだったのかもしれない。しかし正直なところ、午前中の授業だけで脳味噌が完全に疲れ切っていたので、特にランチタイムなどは家主さんが一緒にいようが静かに食事がしたかったのだった。質問されれば答える、そんな1ヶ月が続いたように記憶している。

年齢的なこともあり、夜のバールへ繰り出すにしても若い子たちのように誰かに積極的に話しかけるような勇気は出なかったし、気後れする部分は多分にあった。もともと語学学校自体がとても規模が小さく、生徒数も限られていたので、必然的にすぐ近くでステイしている日本人の子と一緒にいることも多かった。その若い日本人生徒さんたちと喋るイタリア人のそばにいて、自分はその会話を聞いている、という図式が多かったかもしれない。

それでもなんとか修了証をもらい、次の2ヶ月(7、8月)は北部ボローニャで同系列の語学学校に通った。ここでも中級クラスだったが、しばらくして同じクラスの日本人の子が一人、私のところにやってきて、物足りないからもう一つ上の日本人がいないクラスに入りたいと先生に直談判しにいかないか?と言う。確かに中途半端なレベルのクラスだと感じてはいたが、自分はワンランク上を受ける自信もなく、二つ返事でその子の意気込みにつられる形で直談判の場面に身を置くことになった(話はせず身を置いたのみ)。結果的にクラス替えが現実のものとなったが、実際に授業を受けてみると案の定、足を引っ張るのは我々日本人二人だけとなっていた。読む文章は長く、新聞記事のような内容が多く、討論もまた西欧言語が母国語の人たちの中に入っては、とても太刀打ちできるようなレベルにあるものではなかった。

それでも、マンチャーノにいた時よりは自習ができていたように思う。というか、必死に食らいついていくしか無かったし、その時には短い文を作っていくというよりも、数をこなして読む作業の方が多くなっていたので、まずは単語を調べて内容を理解する作業が主となっていたから、ある意味楽だったとも言える。

翌日のレッスンでは、西欧の人たちの冷たい視線を感じながらも、文法的に間違えてもいいからとにかく話す、というのが目標だった。もう一人の子が文法的に正しいイタリア語を話そうとするあまりにつっかえ過ぎて一つのフレーズにもならないのをイライラと見ている生徒たちを見ていたから、尚更自分はとにかく喋りきることに心を砕いていたように思う(そうは言っても先生も気を遣い、西欧人ほどには私たちを指名せずにレッスンを進めていたようにも記憶している)。

ボローニャの蒸し暑さもあり、この2ヶ月もまたヘトヘトの日々だった。ひとつの言語を集中して勉強していると、他の外国語が口から出てこなくなる時がある。というか私の場合がそうだったのだが、ボローニャで英語を話さざるを得ない場面があったときに、英語を話そうとしているのに口をついて出てくるのがイタリア語ばかりでうろたえた時があった。簡単な英単語さえも出てこないのだ。流石にショックを受けた。まあとにかくどうにか合計3ヶ月の語学学校を終え、ついに9月に本当の目的地であるローマへと赴いた。

9月に修復学校の夏季講習(フレスコ画を描く体験コース)に参加し、10月からはいよいよ修復士養成の本コースが始まった。その時のカルチャーショックはまず、イタリア中北部から南部まで、さまざまな国(地方)からやってきた学生たちのイタリア語が聞き取れないことだった。アクセントが強すぎて、何を言っているのかわからないのだ。方言もある。

これまで語学学校で耳にしてきたイタリア語がいかに標準的で綺麗な発音ばかりだったのかを初めて思い知るのだった。そして、マンチャーノは現代イタリア語の原型ともいえる言葉を話すトスカーナ州の町だったし、ボローニャは世界最古の大学がある学生の街で、イタリアの中では生活水準も高く、人々のイタリア語も聞き取りやすかった。問題はローマと、それより南のナポリやプーリア州の発音だった(しかし何故かクラスのシチリア人は皆綺麗なイタリア語を話していた。修復学校に入学するという時点で家庭教育の差が出るのかもしれない)。これが本当のイタリアなのか、と思い知ったが、発音ばかりではなく、独特の言い回しも話すスピードもまた、語学学校では経験しなかったものばかりだった。

生きたイタリア語の洗礼を受け、打ちのめされ、またしても苦悩する日々がやってきた。それでも不思議なもので、毎日接していると少しづつ耳も慣れてくるのだった。授業ではひたすら先生の話をノートに取り続けた。言ってみれば、講義が主の授業ではディクテーション演習をフル回転でやり続けるようなものだった。

そんな中、どうしても何を言っているのか分かりにくい(というか理解できない)ナポリ人学生が1人いたが、彼に関してはイタリア人の皆も「ちょっとあんた、何言ってるかわからないわよ」と聞き返すのが当たり前だったので、面白いなナポリ弁、と皆と笑ってガス抜きするのが普通だった。

そうやってなんとかペースを掴めてきたのが、11月頃だったように思う。

その後はいろいろ経て、毎年秋(11月)頃になると、急にイタリア語が楽になる時が訪れるという感じだった。それまでの数ヶ月はなぜか重苦しい時期が続くのだが、ある瞬間を境にそれがウソのように変わる瞬間が来るのだ。勉強の秋ともいうが、実際に頭の中がいったん整理されるのが秋だったようだ。あくまでも自分の経験では、の話ではあるが。

最終的には、手を動かすことの方が多い修復学校時代より、実際にイタリア語そのものを扱う度合いが多くなった仕事を通じて、話す能力も翻訳する能力も格段に飛躍したと思う。結局、言語は実践で使ってナンボ、なのだ。耳で聴き、口を使って発音し、読み、書くを繰り返していくこと。話し相手がいるのが一番だが、その際には出来る限りお手本となるようなイタリア語を話す人を見つけた方が良いだろう。

要は、必要性に駆られて学習するのがいちばんの近道ということでもある。それでも道は決して平坦ではないが、継続はやはり大きな力となるものなのだ。基礎体力をつけなければ、何も始まらない。その努力から広がっていく世界をぜひ自分のものにしていって欲しいと思う。語学そのものが最終目的なのではなく、その先に待ち受けているものがあなたの人生にとってかけがえのないものとなっていくのだということを忘れないでほしい。

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