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「藪の中」論日誌(1)


私、ちょっと前から、芥川龍之介の「藪の中」という作品に興味がありまして。

ちょっと前、と言っても、元は「うみねこのなく頃に」の物語の結末と、作品を取り巻くファンによる熱狂と終わった瞬間、熱がサッと醒めて忘れられていった流れが妙にダブって見えてしまった現象を、どうにか言語化したくて10年ほど悩んでいる間に、そのどこかで「藪の中」に触れたので、最初に興味を持ってからはそれなりに時間が経ってしまいました。
普段からあっちにこっちにと常時30本くらいある興味があるものの間を日々反復横跳びしているオタクなので、深堀するのにどうしても時間がかかってしまいます。


さて、忙しない反復横跳びでたまに戻ってくるほど、「藪の中」の何が面白いのか?と言うと、実はまあ、wikiを読めば大体わかります

wikiを読むほど暇ではない方に向けてかいつまんで説明しますと、「藪の中」は、とある事件について登場人物たちの証言が連ねられている作品なのですが、実は登場人物同士が異なる”真相”を証言しており、何が"真実"かは読者に委ねられている、という形式のミステリー作品です。本作については、当時の文学評論上で大真面目に犯人探しが行われましたが、当然、主観的な判断に寄ってしか語ることは出来ず、図らずも、登場人物たちがそうであったように、それぞれに都合がいい解釈が持ち出されたそうな。wikiによると、その流れ自体が「藪の中論」として研究対象となっているそうです。

と、ここまでwikiを読んで私はかなり興味をそそられました。オタクとして言えば、刺さったというやつです。
「藪の中」とその評論の流れは、「うみねこ」に大変似ている。
もちろん、「うみねこ」はゲームで連載形式で、意図的に読者の動きを取り入れた作品だったなど、違いはいくつもありますが、全体の構造としては、先行作品と呼んでも差支えないのではないか。文学論に明るくない者の思いつきですが、そう思ったわけですね。
(あんまり詳しくないので、他にも似たような作品があるかは分かってません。あったらぜひ知りたいです。)

とまあ、wikiから興味を持って、持ったままwikiに書いてあること以上を深追いすることもできないまま、別の興味の対象との間を忙しなく反復横跳びをしているうちに令和になり、先日、マスクの乱による全人民に対するAPI配給制という圧政で細ったTLから、こんな記事が流れてきました。

ぜひ、文字を読むのに抵抗がない方は一読してほしい。その価値はあります。

国立国会図書館がデジタル化を頑張ってるらしいぞ、という話は風の噂で知っていたのですが、活用してみた人の話は聞いたことがなかったので、大変勉強になりました。全文検索ができるのは本当に強い。
また、紙の本を一度見ることの価値とは、という下りでは、豪華な装本を見ると条件反射で舌なめずりをしてしまう装丁のオタクも襟を正して頷く他ありませんでした。

こういうのを見たら、とりあえずやってみたくなるのが我が性分。
すぐに手を出してばかりいるから、常時30本くらいのラインの間を反復横跳びをする羽目になるのですが、まあ思い立ったが吉日です。


ということで、前置きが長くなりましたが、本シリーズの趣旨は、「国会図書館デジタルコレクションを活用し、「藪の中」論の原文を読んでみた自分メモ」でございます。

最初に言っておきます。メモです。考察とか、論ずるとかそんなレベルまでは行きません。
その記述を読むべき価値があるかも分からず見ますし、研究上の立ち位置とか、著者についての深堀まではできませんし、年単位で間が空く予感しかしないです。

じゃあなんで読むのかといえば、「藪の中」"論"とは、考察しがちなオタクの感想と捉えられるからなんですね。
「うみねこ」が完結して以降も、1年に1度はひと様の「うみねこ」考察を掘り起こして読んでいた身としては、なんというか、染みついた行為なのです。研究というよりは、シンプルにオタクの言語化・感想が聞きたいだけなんだよなあ。でなければTwitterにしがみつかないのよ。
まあ、〆切もないし流行りに取り残されるという話でもないので、たまに思い出したときにやる趣味&文献を読む訓練みたいな位置づけで、メモ増やしていけたらいいなと思っています。


ということで、ひとつ読んでみたものを試しに。

1.『藪の中』論 鈴木敏代

『常葉国文(3)』P.54 1978年 第11回生卒業論文要旨
常葉大学短期大学部日本語日本文学会 編 (常葉大学短期大学部日本語日本文学会, 1978-06)

卒論の要約。
作品後半の武弘、真砂、多襄丸、それぞれの視点からの証言は、それぞれのキャラクターのエゴイズムが反映されていると指摘。(たとえば、多襄丸は強い自分に対するこだわりがあったため、戦いに勝ったというエピソードを証言に盛り込んでいる。)
芥川が意図したところは「真実はわからない」という点であり、エゴイズムを反映させたのも意図したものである。

個人的に好きだったのはこちら一文。

(前略)誰か1人の確信の持てない真実のためにあとの二人を想像の中で好きなようにしてつじつまを合わせる事にはどうも意味は感じられない。

上記「『藪の中』論」

↑二次創作してるオタクぶった切ってて草。



とまあ、こんな感じで簡単なメモを作っていきたいと思ってます。全文検索できると卒論の要旨なんて細かいネタまで拾えちゃうんだなあ。
まずは国会図書館本登録してきます。


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