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都内へ出たかった
私は、高校を境に都内へ出たかった。
だからこそ、無理をしてでも都内の私立を受けた。
今思えば、「都内へ出ること」が最重要課題なら、偏差値を落とせばよかったと後悔している。
ただ、あの時は、父も偏差値の低い学校へ行くことには賛成していなかった。
だから、都内の私立を受験するためには、進学校に相当する高校を選ばざるを得なかった。
都内へ出たかったのは、地元が嫌いだったからではない。
「憧れ」と「最先端」の情報が入るところなのだろうという偏見からだ。
自分の地元も都内も情報の届く速さは変わらないが、現実的に言って、情報自体が届いていても、校内で新しい情報が話題になることがないため、気が付かないことも多い。
それに、バンドをやるなら、都内のライブハウスだという思い込みもあった。
これらすべてが、私の都内熱を支配していた。
地方あるあるだと思うが、地方にいる感度の高い人の方が意外に都内にある『推し』情報を持っていることもある。
それは、情報誌やネットで最も熱いトピックをチェックしたりしているためだ。
毎日都内へ通っている人は、都内に出る必要性から、わざわざ情報へのアンテナを張る必要はないと思っているきらいがある。
少なくとも、私がアメリカにいる時はそうだった。
アメリカにいる自分より、日本にいる両親や友人の方が、ニュース等でアメリカの最新を知ったりしている。
例えば、メジャーリーガーだったり、世界貿易センターのテロでもそうだ。
メジャーリーガーだったら、自分の地元チームの試合は毎日放映されるが、アウェイの中継はない。
日本の選手がアウェイにいるのであれば、メジャーリーグを追いかけているファンでない限り、知らないことは多い。
世界貿易センターのテロの時は、両親からの電話で知った。
私は寝ていたぐらいだ。
テロは、ニューヨーク、バージニアのペンタゴン、ピッツバーグの森の中に飛行機が墜落したわけだが、ニューヨーク以外の場所では、危険さは皆無に近かった。
少なくともペンタゴン関係者ではない人にとっては無害に近い。
ただ、遠く離れていると、一つの特殊な情報を普遍的な情報と捉えがちになる。
私の都内の高校への進学も同じである。
都内と言っても様々な区があり、区によって治安や学力のレベルもことなるにも関わらず、「都内」と一括りし、憧れに加えてしまう。
そういう「都心への憧れ」だった。
勿論、第一希望が都内の高校で合格できたとしても、そこで自分が理想を描いていた高校生活が送れるとは限らない。
第一希望は、往々にして美化されており、現実を把握していない。
逆に言えば、滑り止め校に進めば、最初から美化もしていない状態で行くため、いざ入学したら思っていたよりいいところだったと思えることもあるはずだ。
実際、公立のレベルを下げてそこへ進学することになったが、意外と過ごしやすかった。
第一希望の都内の私立に通っていたら、違う人生があったであろう。
しかし、人生の中で自分に起こることは、自分が選択した結果である、ひいては、起こるべくして起こっている必然であるのだ。
挫折が多い人もいれば少ない人もいる。
しかし、挫折が多い人が得られるものは、挫折がなかった人には得られないのも事実。
同じように、成功畑を歩んでいる人が見てきている景色は、挫折組が見ている景色とは、確実に異なる。
どちらがいいか悪いかではない。
目の前の真実を受け入れ、突き進むことだ。
受け入れ、困難な道を選択した自分を許して進むし方法はないのだ。