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ニュージャージーでの新たな生活
再び転職活動
次の仕事を探さなければならない状況に陥った時、私はアメリカの人材紹介会社には登録していなかったが、日系のリクルーターと日系無料雑誌の求人広告を頼りに、可能性を感じる企業に履歴書を送り続けた。
その中の一つが食品卸売の営業職であり、頻繁に募集広告を目にしたため応募してみた。
同時に、ゲーム会社の求人もネットで検索し、日系のゲーム会社の一つに応募した。
翌日、食品商社から連絡が入り、面接が設定された。
この食品商社は、アメリカ全土に拠点を持つ日系商社の海外法人であり、DC支店もあったため、その名前を知っていた。
メリーランド州にあるオフィスは住んでいた場所から遠くはなく、すぐに面接日を決めて訪問した。
メリーランド州のオフィスに入って驚いたのは、そのごちゃごちゃした様子だった。
古い倉庫街の一角にあり、治安も良くない印象を受けた。
面接官は北東地区を統括する統括部長で、初見は強面だったが、話してみると非常に話しやすい人物だった。
彼は仕事の内容がルートセールス、つまり足で稼ぐ泥臭い営業であることや年収について率直に説明してくれた。
その時点で、以前のゲーム会社とは全く異なる働き方になるとすぐに理解した。
面接を終えた翌日、1次面接のみで採用が決まったと人事から連絡があった。
エントリーレベルのポジションであったため、上層部との面接は不要だったのだろう。
しかし、採用の連絡を受けて素直に喜んだ。
どんな仕事であれ、前のゲーム会社時代よりも年収が上がるのは確実だったし、人と話すのが好きな私にとって営業職には大きな興味があった。
内定をもらったこと自体は嬉しかったが、正直なところゲーム業界に居続けたかった。
ゲーム業界では、発売前の「デスマーチ」と呼ばれる過酷なスケジュールが続く文化があった。
発売日が迫る中、バグ修正に徹夜で取り組む日々が続いた。
寝袋を持ち寄って交代しながらバグの修正に当たることが常だった。
そんな文化があっても尚ゲーム会社が夢のような仕事場に思えていた。
オファーをくれた食品商社には2週間の猶予をもらい、その間に応募していたゲーム会社の案件が進展しないかを待ったが、期待通りにはいかなかった。
最終的に、食品商社のオファーを受ける決断をした。
オファーレターを受け取る直前に、ニューヨーク支店への配属が決まったため、バージニア近郊からニュージャージー州へのリロケーションが必要になった。
引っ越し費用は3000ドルまで支給されたが、非常に少ない金額だったため、自分でトラックを運転して引っ越しを行うことになった。
既婚者だった私は、前妻にもニューヨークへの引っ越しを伝えたが、彼女は急に仕事を辞めることができず、単身赴任を余儀なくされた。
引っ越しの日、彼女は旅行に出かけており、私は一人で荷物をトラックに積み込み、ニュージャージーへと旅立った。
この時から、私の人生は過酷な方向へと進み始めた。
ゲーム業界に戻りたい気持ちは強かったが、現実はそう簡単にはいかず、食品商社での新しいキャリアに挑むこととなった。
この経験を通じて、人生の転機が突然訪れること、そしてその都度新しい挑戦に立ち向かうことの重要性を学んだ。