習作集:小説「ある日、ロマンス書店で」

私鉄沿線の急行停車駅の駅前には新しくできたカフェや書店が立ち並んでいた。どこか違う町に来たようだった。
単身赴任の日々も十数年になる。数か月振りに帰る我が家なのに、どこかよその家に行くような気がしてならなかった。家族はそれぞれに家の内外に居場所を得ている。自分の居場所のない家で、長い休暇を持て余すことになるのだろうかと思うとまっすぐに帰る気にならなかった。
所在ないままに駅前にできたばかりの書店を覗いていた。書店の隅で熱心に立ち読みしている女性がいた。通り過ぎようとしたが、今にも泣き出しそうな様子に目が離せなくなった。夢中で立ち読みしている横顔が、すっかり忘れていたあの人に見えた。40年も経っていた。
 部活に明け暮れた中高時代だった。インターハイが終わって部活を引退すると急に受験が目の前に迫ってきた。何を買うわけでもなかったが、いつもの書店には数日おきに通っていた。
あの日も、文芸コーナーの奥には、いつも熱心に立ち読みしている女子学生がいた。制服を見たらどこの高校かわかる。硬派の受験校だ。どんな本を読んでいるんだろう。ずっと気になっていたが、声をかける隙がなかった。僕は彼女に近づいて勇気を振り絞って不意打ちをかけた。
「いつもここで読んでいるよね、何、読んでるの?」
かなり大切な場面を読んでいたところだったのかもしれない。表情は続きを読みたいのに邪魔しないでほしいという風情だったが、諦めたようにページを閉じて表紙を見せてくれた。五木寛之の「蒼さめた馬を見よ」だった。
「あ、僕も気になっていた本だ」
彼女はいたずらを見つけられた子どものように言い訳をして、
「お小遣いでは買えないから、毎日、少しづつ立ち読みしているの、本屋さんには悪いけど、立ち読みは得意なんだ」
と笑った。いつまでもこのまま本の話をしていたいと思った。
「明日も来るの?」
問いかけると、
「ちょっとわからない」
と苦笑いされた。そうだろうなと思う。これは立派なナンパだ。失礼な奴だと、きっと気持悪いやつだと思われただろう。こんなことができると自分でも思っていなかった。自己嫌悪でやり切れなくなった。もう、あの書店には行けないと当時の僕は思った。
書店の前を通ると、もしかしたら会えるのではないかと思いながら速足で通り過ぎた。今度は「ここでまた会おう」と伝えたかった。彼女はとっくに「蒼ざめた馬を見よ」は読み終えていただろうに。
卒業式の後に書店に寄った。卒業証書を胸に友人たちと一緒に笑っているあの人の姿があった。声をかけられるはずもなかった。翌日は地方の大学に向かって旅立つことになっていた。さようならと横顔に別れを告げた。書店から出ると桜がはらりと舞っていた。
 
相変わらず立ち読みしていた女性は、その後もネット掲示板で話題になっていた「明日妻が浮気します」を斜めに辿っているところだった。僕は凝視していた。絡みつくような視線を感じたのだろう。途中で本を置いて書店から出ようとした。また、昔のように別れてしまうのかと思うと焦った。追いかけて、書店を出たところで声をかけた。
「お急ぎでなかったら、お茶をご一緒してくださいませんか。本の話をしたいのですが」
「手に取っていた本が『明日妻が浮気をします』だからって、私は浮気がしたいわけではありませんから」
とその女性は笑っていた。
「すいません」
 僕は思わず謝った。
「私は隙だらけってことかな、60も手前になるというのにナンパされるやなんてどうなんでしょうね、あなたもよく似た年恰好だけどよくやりますね」
笑っているけれど、辛辣だった。カーッと体が熱くなった。僕はもう一度頭を下げた。
「ごめんなさい。お昼休みが終わるので」
 僕はスマートに断られた。
「そうですか、失礼しました」
 去っていく後姿を見ていたら、ふっと振り向いて、何故か申し訳なさそうに軽く会釈をしてきた。やはりあの人だったのではないか、確かめずにはおられなくなった。
「もしかして、前にも同じようなことありませんでしたか?」
追いかけて、聞いてみた。
「ないと思います」
申し訳なさそうに言うと、今度こそ去って行った。
その人はずいぶん長い時間、「家族の最期を看取る」という本を涙ぐみながら読んでいた。どうしても声をかけずにはいられなかった。
かっこ悪いなと思った。大体、この歳にもなってこんなこと普通するかな。しかも、相手に謝らせているし、恥ずかしいことこの上ない。それにしても、似ていた。本に夢中になっている隙だらけの姿と声をかけたときのびっくりした表情と少し困った顔。
 
あれから、書店には帰宅するたびに立ち寄っていたが、もうその人には逢うことはなかった。
そして、3年前の春、定年退職してこの町に戻って来た。相変わらず家に居場所のないのは変わらない。日課のように出掛けていたが、新型コロナ感染症対策の自粛で書店にも行けなくなった。公園を散歩するのが習慣になった。
その人は、駅前にある大手の会社に勤めていた。その制服でそれと分かった。同じ会社に勤めている同級生に聞いた。リストラの嵐の中でも残って頑張って定年を迎えた。そして母親を見送ったと同時に引っ越したそうだ。
引っ越した先でも居心地のいい書店を見付けているのだろう。以前のように、立ち読みをしなくても、併設のカフェで試読ができる書店もできている。あの人は相変わらず、立って読むか座って読むかの違いだけで、同じように隙だらけで夢中で試読しているのだろう。
公園を散歩しているとはらりと桜が舞い散る。ふっと後ろを振り返ると、あの人が桜の舞う中に立っている。聞いてみた。
「前にも同じようなことがありましたね」
 あの人は穏やかに笑っていた。
「はい、ありましたね」
風がはなびらを舞い上げた。思わず目を伏せた。花びらの妖精はときどき夢を見せてくれる。

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