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楽しい地獄、発狂、クロノスタシス
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2025年 正月。義実家からの帰り道、降り頻る雪の峠道を進む間、ひたすら気が狂うほどに星野源の『地獄でなぜ悪い』を聴き続けていた。
荒天の中の車内はいつも現実感に乏しい。風のない夜の降雪は音がしない。車中からは吹き荒ぶように見えるそれらは自らの移動によって生まれた幻想であり、相対的なものに過ぎないことを理性では理解していても、これほどの嵐の中を無音で進む車はどこか夢の中にいるかのようで現実感が眩む。元旦に飲んだ帰りに呼んだ代行は、この車を恐ろしい速度で駆り、実に時速60kmで実家近くの急勾配のヘアピンカーブに突っ込んでいった。今まさに自分がそれを超える速度で奥羽山脈を横断していることを考えると、アルコールに浸された脳のほうが幾許か正気を保っていたのではないかと思われてくる。
恐らくヒトは、主体感を伴う「速度」をいくらか割り引いて感じる機構を備えているのではないかと思う。主体感のある運動によって与えられる視覚刺激に対しては常に予測が付随/先行するため、流れる景色に対する眼球運動の反応時間が短縮されるだろうことは容易に想像できる。或いは、自ら運動する際は視覚情報のディテールを捨象して、特に注意を向けているものしか意識表象に上らないようなブロードな抑制がかかるシステムがある可能性もある。鳩の歩行中の首振りによる視界ブレ補正は有名だが、首を振らない霊長類でも眼球運動レベルで似た処理をやっていると言えなくもないだろう(サッケードは瞬間的固視の連続だからいちいち視界を“止めて”見ていると言えると思う)。クロノスタシスなんかもこういう流れで説明されているような気がするが、視覚のことも時間のことも不勉強で無知なのでこれ以上の頓珍漢を開陳することは避けたい。いずれにせよ何らかの様式で実験系に落とし込まれて確認されていることだと思うからこのような思いつきに新規性を求めてはいけないのだ。あとで文献をあたるから許して欲しい。
上述の通り譫語のようなとめどない考え事をしているうちに峠道のサビを抜け、雫石の道の駅の明かりに気がついた。ハンドルと自分の命を握る運転手が完全に発狂していることは明らかであるから、ここで狂気を尿に変換して水に流すことを選択した。
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放尿しながら以下に事の経緯を整理していく。
繰り返し聴き続けた『地獄でなぜ悪い』は、態々改めて言及するまでもなく、年末の紅白で“歌われなかった”歌である。経緯をご存知でない聡明な方には後で湿った石の裏側を調べてもらうこととして、僕は単純にこの歌われなかった方の歌がどんな歌だったか覚えがなかった。聞けば思い出す程度には売れた曲であるはずであり、尚且つライトファンを自認するところのVtuber・名取さなが当該曲をカバーした動画を上げていたにも関わらず、僕はその動画を見ておらず、本当に一度も通しでその曲を聴いたことがなかった。これは屈折と言うしかないが、僕は“しゃべり”から入った相手に対しては、たとえそれが歌手であっても曲自体への関心を喚起されることがあまり無い。それゆえにCreepy nutsについてもANNを辞めるまで彼らの楽曲そのものに興味を持つのに相当の時間を要したし、伊集院光の落語を聞いたことも勿論ない。未だにCreepy nutsの曲がバカみたいに売れるたび「ラジオが続いていたらこの楽曲の反響について松永がどんな失言をし得るか」の方に関心が向いてしまう。この歪んだ性向のせいで「名取がカバーした星野源の曲」という認識だけがあり、曲自体を聴く機会を逸していた。
そんな曲を狂うほど繰り返し聴いたのは気に入ったからというよりは単に意図せずその曲だけがループ再生になっていたからだが、同時に峠道を高速で駆け下りる最中で再生を止めることが最早叶わなかったためでもある。星野源に「無駄だ ここは元から楽しい地獄だ」と囁かれながら曲がる凍結したワインディングロードは実際に地獄に繋がっていることが明白であったので、ハンドルを握る手には汗が滲み生を実感した。結果としてこの曲自体も名取の(明らかにペルソナが込められた)PVも気に入ったからこんな怪文書を綴るに至っているわけだが、運転中に聞くのはなるべく避けた方がいい。
歌詞を見ずに繰り返し同じ曲を聴くと、大抵どこかに酷い聴き違いをして歌詞を覚えてしまうものである。僕はずっとサビの最後のフレーズを「ただ地獄を進む者が “正しい”記憶に勝つ」だと思い込んでおり、この歌詞の意味を真剣に考え続けていた。
「病室」から始まるこの曲は、くも膜下出血で倒れ一命を取り留めた星野源が病床で書いた曲と聞いた覚えがある。その星野源がこの世は地獄だと言いつつ、進み続けることで“正しい”記憶に勝つとは、どういう意味が含まれたものだろうと考察を始めたわけだ。今となっては完全に意味を失った思索であるが、僕の結論としては『発狂は救いである』という解釈に落ち着いた。この世は地獄であると正しく認識しながらも、地獄を歩み続けることは辛い。自らを取り巻く環境や過去の凄惨な出来事について正しい認識を持ち続けることは地獄の只中で歩みを止めることに繋がりかねない。そこで発狂することで、“誤った”世界認識を強固に持ち、“正しい”が同時に辛い記憶に引きずり倒されないよう歩み続けることが己を救うのである、という提言に繋がる。生きる限り常に付きまとう死と老いの恐怖から逃れ「楽しい地獄」を止まらずに進むためには、発狂したオプティミストになる他ないというのが星野源の悟りであると、そう考えた。
…聞き間違いを元にこれだけ妄言を並べられれば立派な狂人だ。晩年は直木賞を目指そう。
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何で読んだか忘れたが、人が天国や輪廻転生を標榜する宗教を必要とする理由として、恐ろしい言説を聞いたことがある。曰く、人が死後の世界を必要とするのは、今生きる現世が実は天国であり、死後は永遠に閉ざされた地獄が待つだけかもしれない、という不安を掻き消すためであると。たしかに肉体の死後に断絶した意識が、次に目覚めた時に二度と出ることの出来ない暗闇にあったと想像すると根源的恐怖が喚起される。星野源は「生まれ落ちたときから出口はない」と歌っているが、死によって肉体という精神の器から自我が零れ落ちた先には、天国や地獄のような何かが待ち構えているわけではなくただ無限の行き止まりがあるだけである、つまり生の次に待ち構える死後の世界など無い、ということを言っているのではないかと思った。これは現世への絶望としては掛け値ないものであり、宗教という名の発狂の一形態により心を麻酔しなければ逃れられない悲劇的な思い付きである。星野源が死後の世界を否定した後に述べた言葉が「発狂せよ」であるなら、これは宗教と共に歩んできた人類史的にも正しい指摘と言える。
作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ
この残酷な気付きが一年の終わりに国中に響かなかったことが残念だ。
いま眼前を染めて我々の視覚を騙し続けている美しい地獄を、決して疑わずに歩き続けることが今生における唯一の救いである。“作り物で悪いか?” ー騙されている自分の意識と、この主体感は本物だ。先に待つのがただの行き止まりでも車輪は同じ速度で回り続ける。主体感を失った時から人生は残酷に加速する。我々に許されていることは天国を待たずにこの地獄を楽しむことだけ。
自分の人生を生きろ。
長い放尿が終わった。最近キレが悪い。
あけましておめでとう。
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