木に学べ 西岡常一
何度読んでも心にしみる「木に学べ」
私は大学を卒業後に宮大工見習いを4年間していた。いずれ郷里の能登島に帰ろうと考えていたことに加え、他人と違う道を歩くことを好む性向も影響していたと思う。神奈川県のとある神社の造営現場でのアルバイトからそのまま社寺専門の工務店に入社と相成った。
アルバイトの時は日当も高かったし仕事も面白かったが、入社後は本格的に弟子のひとりとして棟梁の家に住み込みで働くことになり、華やかな大学生活は一変した。当然仕事はきつかった。夏に屋根の上であまりの暑さに気を失いそうになったこともあるし、冬には毎朝バケツの水に氷が張っているのを割ってノミやカンナを研いだ。休みも少なく給料も高くはなかった。こんなことならサラリーマンになればよかったという後悔がなかったかといえば嘘になる。
それでも断言できる。
あの経験があったからこそ私は保守主義を理解できたのだと。
そして、西岡常一の著書の数々は私の宮大工としての経験と保守主義を結びつけた最高のテキストであった。その中の一冊を久しぶりに読み返した。何度読んでも本当に心にしみる。私にとって西岡常一の言葉が光を失わない理由は背表紙の紹介文の最後にも記されている。
氏が発するひとつひとつの言葉からは、現代人が忘れかけている伝統的な日本文化の深奥が、見事なまでに伝わってくる。
ここでいう現代人がこの本が出版されたころの”現代”を指しているとしたら、昭和末期から平成初期のころであろう。それから30年が経ち時代は令和へと進んだ。30年前すでに”忘れかけていた”ことを今私たちは完全に忘却の彼方へと押しやり、完全に失いつつあるのではないだろうか。
であればこそ、代打として登場したオリンピックのロゴマークにも使われているように、現代日本において伝統や文化への渇望が顕著となっている。しかし周りを見渡してもその伝統や文化を破壊した残骸しか残っていない。伝統という言葉に紐づいているのは「保守」を標榜する政治的イデオロギーばかりである。
この本は「伝統」や「文化」という言葉さえも「消費」という言葉と同じ程度の価値しか持ち得なくなった今こそ読むべき一冊であると推薦しておく。
樹齢千年のヒノキを使えば、建造物は千年はもつ
ヒノキがどんな樹木なのかについて日本書紀においてスサノオノミコトの話に以下のように出てくる。スサノオが胸毛を巻くとヒノキが生えること、そしてヒノキの用途として宮殿や社寺を作るために使えということ(檜は以て瑞の宮をつくる材(き)とすべし)。1300年前にすでに日本人はヒノキの建築材としてのすばらしさを知っていたことになる。そして実際に樹齢千年を超えるヒノキを用いて造営された法隆寺が今もなお存在していることがその正しさを証明しているのだ。
ヒノキという材料についてだけでなく、工法についても同様のことが言える。(定期的な修繕が可能であるということも含め)1300年前の工法による建造物が現存しているということは、同様の技法・工法を用いればその建造物は1300年もつ可能性が高いこともまた同時に証明している。
西岡常一の一貫したこだわりはここにあるのだ。
本書を読めば西岡常一が伝統建築の再建にあたり様式や構造について学者と再三にわたって議論を戦わせてきたことがわかる。学者の側から見ると、そうとう頑固で手強いオヤジだったに違いない。
学問的な仮説や理論上の構造計算を携えて西岡常一を打ち負かそうとしてもほとんど負け戦になってしまう。なぜならば歴史的事実以上の根拠を示すことは困難を極めるからだ。江戸幕府や明治政府の政治的決定による影響といった見方によって評価が変わるものならまだしも、法隆寺も薬師寺は今もなお厳然としてそこにある。これは揺るがしがたい。
古典建築は時効の重要性を体現している
宮大工見習いの経験から、私は「計算上○○年もつ」という科学的合理性よりも前者の時間が証明した事実のほうを重視する。時効という言葉は一般にはある期間逃亡に成功すればペナルティーが免除される意味に使われることが多いが、私はそれがこの言葉の本質とは考えない。西部邁の著書にもたびたび登場するように、時効(prescription)とは、時間を経て残っているという事実が有用性ないし妥当性の証であるとすることを意味しており、法隆寺や薬師寺は千年以上の時効を体現するものだ。
したがって、西岡常一はその存在自体が保守主義的であると言わざるを得ないのだ。
古典建築と保守主義
これは約20年前に私が当時加藤紘一氏が率いていた自民党宏池会の候補者公募において提出した論文のタイトルだ。
政治の道に進みたいと思い始めていた私が宮大工見習いの経験を通じて得たことは大きく二つあったと思う。そのうちの一つが古典建築と保守主義の共通性であった。西岡常一は保守主義という言葉を用いることはないが、かれが法隆寺や薬師寺の建築に携わる棟梁として大切にしてきたことは、保守主義について考察する際に最も重要な点と重なると私は考えている。
公募論文で主張したこと
西岡常一の古典建築論、西部邁の保守思想がわたしの価値観を構築を構築する際の両輪だった。そして自分が日々ともにはたらく職人の皆さんは粗野だけど優しくて、金銭的に豊かでなくても知恵とユーモアで楽しく生きていた。そう、まさにブレイディみかこの本に出てくるおっさんたちと同じような人たちだった。こうした人たちとの交流が私の宮大工見習いの時に得たもう一つの重要な経験だった。
職人との日常、保守主義的視点のふたつから20年前当時私が主張したことは、以下のようなことだ。
保守政治の精神は古典建築に宿る
政治の要諦は国家百年の計を立てることにある。今風に言えば持続可能な社会の発展のために政策を打ち出すことといえよう。そのために必要なことは現時点で顕在化している諸課題に対応するために、現時点の合理性を当てはめて対策を打ち出すことではない。百年の計を打ち立てるには少なくとも過去百年の歩みに照らしてその妥当性を測るべしということだ。百年前と世相が異なるからそんなことに意味がないなどということはない。課題の様相は異なろうとも、不完全な人間が移り行く諸課題に向き合い乗り越えようとしてきたという営為に変わりはない。したがって具体的な処方箋そのものではなくその処方にあたっての構えや、エッセンスを歴史や伝統からくみ取る姿勢が必要なはずだ。
建築でいえば道具や材料が変わっても、日本の風土や暮らしに合致して長持ちする家づくりのためには変わらぬ精神があるべきだということになる。
西岡常一は仕事がら不易流行という言葉のうちの”不易”の部分を絶対視する傾向があるが、健全な保守主義はもう少しマイルドで、どちらかといえば流行よりも不易を重視しつつ、両者のバランスのとり方(平衡感覚)においても時効を尊重するということである。
こうしたことを踏まえつつ、『私が自民党の門をたたくのは(当時)自民党が唯一の保守政党だからである。しかし、一連の構造改革(規制緩和や行政改革など)は保守政治のスタンスからは逸脱している部分が少なくないのではないか。』というようなことを生意気にも書いて提出した。一時であれこのような若者を勉強会に招いてくれた当時の宏池会は寛容であったと思う。そしてその際には元衆議院議員の谷垣禎一氏、参議院議員の林芳正氏には大変お世話になった。
法隆寺は構造で魅せる
横にそれてしまった話を元に戻そう。私は京都の建築群よりも奈良の建築群を好む。宮大工見習いのころは週末になれば奈良に足を運び、西岡常一の本を片手に法隆寺を訪れるのが好きだった。金堂や五重塔、夢殿といった代表的な建造物のみならず、門や回廊に至るまですべてが理にかなった構造によってその威容を維持している。外から見ているだけではわからないが、西岡常一によれば、構造そのものだけでなく適材適所のために木のくせを見抜いて材を用いているとのことだ。
様式や装飾で魅せるのではなく構造そのもので美を表現することができるところが建築の面白いところでもある。あらゆる部材の形や配置に意味があり、その集合体の調和が建造物の耐久性と美しさを担保している。このことの一端を理解することができるようになっただけでも私の4年間には価値があった。
とはいえ最後に奈良を訪れてからずいぶんと時間が経ってしまっている。この騒ぎがもう少し静まったなら、GO TOキャンペーンでゆっくりと奈良の建築群を味わってくることにしよう。きっとまた新しい発見があるはずだ。
最後に
最後に西岡常一本人によるあとがきの一説を紹介しよう。
私は、学問を軽んずるような心は毛頭持っておりませんが、よく考えてみてください。科学知識は日進月歩で、今日の正論は明日の正論ではありえないのではないでしょうか。今日をもって千年後の建築の命を証明できないのではないかと思います。千年どころか、明日をも律し得ないのが科学知識の天気予報やありませんか。
それはなんでかと言うたら、科学はまだまだ未完成やからだっしゃろ。未完成の今日を科学で総てを律しようと考えがちなのが、学者さん方やおまへんやろか。科学知識のない我々工人の言い分にも耳を傾けるような学者さんこそ、本当の学者やと思いまんな。
科学は日進月歩であり、この本が出版されたころにはAIはおろか携帯電話さえもなかった。この時代から現在までの科学の進歩は著しい。しかしいまだ科学は水害からもウイルスからも十分に我々を守ってはくれない。学問(科学)を軽んずることなく、それでいて歴史を手掛かりにして今日の正論に健全な懐疑の目を向ける。そのなかから不完全なりとも危機を乗り越えるための処方箋を描く。こうした一日一日の積み重ねが百年の計となり、いずれ千年の歴史となる。西岡常一の言葉を私はこのように解釈している。
日々の情報に一喜一憂、右往左往しがちな今だからこそ、読むべき一冊であると思う。
最後まで読んでいただきありがとうございました