えもの
誰もいない、廃墟となった街の交差点に一人の少女が歩いていた。
彼女は白いきれいなワンピースを着て
もう明かりを灯さない信号の中
もう車の通ることのない交差点の上を
鼻歌を歌いながら歩いていた。
少女は楽しそうに歌っている。
「フンフフン♪」
誰もいない交差点をただ歩いている。
はだしで、軽快なステップを踏んでいる。
その少女のもとに、遠くから一匹のけものが近づいてくる。
そいつは息をひそめて少女を狙っていた。
もう二歩少女が進んだら、
けものは考えた。
もう二歩進んだらあいつを襲う。
あいつの肉はうまそうだ。
少女は一歩前に出る。
そうだ。そのまま。もう一歩進め。そしたら。
「ねぇ。」
少女が声をだした。
けものは動きを止めた。
その声が自分にかけられたのかどうか分からなかったから。
「ねぇ。」
今度は少女ははっきりとけものの方を見た。
けものは少女をにらみつける。
いったいいつから気づいていたのか。
そんな様子はちっとも見せなかったのに。
少女はけものがにらむのにかまわず続ける。
「あなた。一緒に踊らない?一人で歌って踊るのにはもう飽きちゃった。」
こいつはなにを言っているのか。
けものは言葉にならない声で叫んだ。
おれはお前を食おうとしているんだ。
少女は笑った。
「それは怖いわね。」
少女は楽しそうだ。まったくこいつは何を考えているのだろう。
「でも、私を食べるのなんていつでもできるでしょう?
「それなら、私と楽しく踊ってから食べても同じでしょ?
「きっとそのほうが楽しいわ。」
少女はそんな風にいった。
変わった命乞いだ、と思った。
しかしけものは少女の手をとった。
すでに気づかれていた、というばつの悪さがあった。
油断しているところを襲うのがいいだろう、という魂胆があった。
この踊りが終わったら食ってやる。それまでは食わずにいてやる。
「どうぞご自由に。」
けものは心の中で残忍な笑みを浮かべた。
そうして踊りは始まった。
伴奏は少女の鼻歌だけだ。
けものは踊り方なんて知らなかった。
けれど、少女を見ていたら自然と体が動いた。
なぜだかわからない。
なぜだかわからないが、少女と踊るのは楽しかった。
きっとこれは、こいつを食べられるという喜びだ。けものはそう考えた。
けものは少女と踊りつづけた。
そうしているうちにけものは不思議な夢を見た。
踊りながら夢を見るなんて不思議だ。
しかし夢には違いなかった。
そこには人々がいた。
みんな笑顔で楽しそうだ。
そこには家族がいた。
みんなこちらに手をふっている。
でも俺は―。
けものは自分の体を見る。
けものは自分が人間になっていることに気づいた。
けものだった男は家族のところへ歩き出す。
家族と言葉をかわし、人々と笑顔をかわした。
なんて幸福な夢だろうか。
いつまでもこうしていたい。
けものは踊り続けた。
もう少女のことは忘れていた。自分のことも忘れていた。
いつまでも踊り続けていたい。この夢が覚めないように。
けものは踊り続けた。
足が動かなくなっても、手だけで踊り続けた。
手が動かなくなっても、頭を振って踊り続けた。
頭が動かなくなっても、心臓の鼓動で踊り続けた。
やがてけものの心臓が動かなくなった後。
少女はかつてけものだったものを見つめた。
「いい夢をありがとう。楽しかったわ。」
そういって少女は微笑んだ。
ここには墓の代わりになるようなものはない。
けれども、少女は祈った。
「どうか安らかに。」
そうして少女はふたたび歩き始めた。
今度はいったい誰が来るのかしら。
「フンフフン♪」
期待に胸を膨らませながら、少女は歌い、軽快なステップを踏みだした。
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