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未明の初雪
令和7年2月26日。珍しく東京に雪が降り積もった早朝だった。都内の街路は白く染まり、冷たい空気が通りを包み込んでいる。僕はギターケースを肩にかけながら、ふらふらと歩いていた。遅くまでリハーサルスタジオでバンドの練習をし、その後メンバーと飲みに行った帰り道だ。朝焼けにはまだ早く、街は静寂の中で冷たく凍りついているように見える。
ふと足を止めると、遠くから低いエンジン音が耳に届いた。雪に包まれた都心の道路を、黒く塗られた装甲車両が進んでくるのが見える。彼らは次々と隊列を組んでゆっくりと前進している。車両の陰から見えるのは、ヘルメットと制服に身を包んだ自衛隊の隊員たち。白い雪の中、黙々と進む姿はどこか非現実的で、異様な儀式を思わせるものがあった。
ニュース速報がスマホに通知され、「緊急事態宣言」が発令されたことを告げた。けれど、どうしてもまだ遠くの出来事のようにしか受け止められない。「いつもの日常」に紛れ込んだ「非日常」が、東京に降り積もる雪と共に、現実味を欠いた光景として漂っている。
何が起きているのかを考える余裕もなく、僕は気がつけば歩き続けていた。疲れた足を引きずりながら路地裏に入ると、あたりは闇市のような雰囲気に包まれている。暗がりの中で、古びた立喰い蕎麦屋がかろうじて営業しているのが見える。闇市の脆弱なたたずまいを持つこの立喰い蕎麦屋は、まるで異世界への入り口のようにそこに佇んでいる。
薄暗い店内に一歩踏み入れ、「カケ一丁」と頼んでみる。奥にどっしりと構える店主が、無言で蕎麦を茹でている。その一方で、隣にふと目をやると、男が黙々と蕎麦を手繰っている。男の足元には一匹のバセットハウンドが伏せていて、ただ無表情にこちらを見つめている。
男はすする音を響かせながら、箸の使い方や出汁の風味にこだわる仕草が尋常ではない。僕がその所作に見入っていると、彼はつぶやくように語りかけてきた。
「出汁の味が少し薄いな、これじゃあ関東風の濃い蕎麦つゆには程遠い。それでも、こうしてちょっとした塩味と熱で満たされる感覚ってのは、時折必要なものだよ。戦場でもな」
“戦場でも?”と聞き返そうとしたその瞬間、彼はあくまで何気ない風を装い、続ける。「まあ、こういう場所で蕎麦を手繰るのも一つの作法さ。立って、さっと食べて、また戻る。だからこういう店があるんだろう。分かるかい?立喰い蕎麦ってのは、何かを知っている人が立ち寄る場所なんだ」
彼の目線は、一瞬僕を通り越し、遥か遠くへ向いているように見えた。まるで今目の前で進む戦車の隊列や、都内中心部へと続く自衛隊の移動すら彼にとっては日常の一部であり、その動向にすでに通じているかのような、確信に満ちた瞳だった。
「連中がどこに向かっているのか、気にはならないか?」
そう言った彼の足元にはバセットハウンドが伏せていて、彼はその犬に視線を落とすと、口元に微かな笑みを浮かべた。「本当のことを知っているのは、犬くらいなもんさ」
僕は戸惑いながらうなずくと、彼は蕎麦を手繰る手を止め、意味ありげに微笑んだ。「霞が関と永田町、桜田門。東京はまた戦場となるのさ」
彼の言葉には、不思議な説得力があった。何かを暗示するかのように、現実の少し先を見透かしているその目線には、ただの立喰師のようには見えない鋭さがある。
「まあ、このそば屋に来ればまた会えるさ。生きていればな」
彼はそう言って再び蕎麦をすすり始めた。彼の穏やかな所作に隠された、その「真意」を知ることができるのは、それからすぐのことだった。