”DNA JOURNEY” 私たちの中の縄文の在処へ。
いわゆる、厳しい家に育った。
学生の頃クラスで一人だけ、とんねるずのみなさんのおかげでしたを見ることが許されず、翌日、学校で友人の会話について行かれなくて苦労したものだ。
確か兄と二人で徒党を組んで、他のテレビは全部我慢するから、
どうしてもおかげでしただけは見せてくれと親に直談判したのではなかったか。
でも最近は、一般の集合意識が、大きな一つの流れに集約されなくなって来たのをひしひしと感じる。
たった一人のアイドルを、大半の人が好きになったり。
たった一つのイベントに、国民総出で熱狂したり。
このゲームが好きな人。このアニメが好きな人。このアイドルが好きな人。
このイベントがないと生きていかれないっていう人。このファッションが好きな人。このSNSが好きな人。
好みは細分化され、”違う”と分かった人には互いに干渉しない。
そんなやり方が今や当たり前の処世術。
だから、たまに出会えた同じ趣味の人同士が、なかなか出会えない分、強烈に引き合ってグループになる。
このテレビ番組を見ていないと友達の会話についていかれないなんていう悩みは、もう過去の小説や物語の中だけものになってしまったのじゃないだろうか。
陰謀論者とか言われてかつてはひとくくりにされていた少数派の人たちも、実は今では内輪分裂が進んでいる。
かつては私も情報をもらってた、あるいはこの人こそが仲間だと思っていたインフルエンサーの方達も、喧嘩を始めたり、主張が変わっていったりして、
その周囲に群がっていた人たちまで応援団に別れて分割され、
もう自分でも自分がどこに属しているのか、よくわからないようになってしまった。
別に陰謀論にかぎらない。
きっとそうやってこれからますます色々なことが細かくなって、
最後はきっと、たった一人の個人にそれぞれが戻っていくのだろう。
自分はすごい人間と繋がってしまった、一部の人しか知らない情報に、ついにアクセスしてしまった。
一般にはとても言えない。コレは”ピー”入れないとちょっと話せない。
そんなとびきりの、自分だけが知っている情報を頬を高揚させて発信しているような人を見ると、最近では何か、この人ともここでお別れかな、と寂しさを感じるようになってしまった。
すごい情報を知っている自分というものに価値を置き始めると、
テレビに出てる人と知り合ったとか、テレビに呼ばれたとか、フォロワー数が増えたとか、既存の価値観に一喜一憂、
与えてくれる相手との関係や、さらなる最新の情報がもらえるかどうかに振り回されるようになる。
しかしそれを追い求めるのは、自分はその人よりも劣っている、って自分の非力を認めることだ。
元は同じ人間のはずなのに、そこに簡単に優劣がつき、自分の足元が急に不安になって、自分に価値を与えてくれる何かや誰かに麻薬のように依存し始める。
今までさんざん三次元世界で学んだのに、いざ自分の目の前にそのスペシャルなお皿を並べられると、嫌と言うほど騙されてきたその常套手段に、
私たちはどうしても、お尻の辺りがソワソワしてしまう。
どうして私たちは簡単に、自分を劣った方に分類してしまうのだろう。
もう十分な数のフォロワーがいて、すでに眩しいほどの才能があるような人ですら、自分より優れているように装う他者に、「それすごい情報じゃないですか!」なんて鼻息を荒くして、自分の価値を簡単に明け渡してしまう。
それは、謙虚とか謙遜というのとは違う。
そして、そうやって外側に惑わされているうちは、私たちは絶対に三次元からは出られない。
「あなたにだけ教えげあげる」「あなただけ入れてあげる」
現実社会であっても、もしそうやって希少性を漂わせ思わせぶりに近づいてくる人がいたら、それはセンサーを立てて警戒すべき瞬間だ。
ジャニーズ事務所が崩壊し、宝塚歌劇団の内部のいじめ体質が暴露され、歌舞伎の世界の密室にメスが入り、自民党は統一教会と表裏一体だった。
それでも、どうしてもジャニーズのファンをやめられない人。
宝塚ファンをやめられない人。
安倍晋三信者をやめられない人。
別にそれはそれで構わない。
それでももう、紅白の白組のアイドル司会者が大トリも務めるなんてことは二度と起こらないし、安倍晋三氏の後継者も現れない。
ついてこれない人はきっと、自分の信奉して来たファンタジーを壊され怒って抵抗するのだろうが、もうきっと世の中の流れは止められない。
未来永劫崩れないように思えていた鉄板の価値観は、ガラガラと今、崩れていっている。
別に誰かのファンでいたっていいのだ。
ただそうやって大きな母体は崩れ、ファンタジーは静かに郷愁になり、粛々と細分化は進んでいくというだけだ。
長く、日本の教育現場では、リベラルであることは弱者の味方、人権意識の高さ=文化的、反戦=善良、すなわちあるべきまともな姿である、というような教育がなされて来た。
かく言う私も、つい数年前までゴリゴリの左巻きであった。
それが今、とうとうそのリベラルにまで、各地で?がつき始めた。
「すごい時代だなあ」と、この変化の波を見るたびに、立ち止まってその波の大きさを見上げ、感嘆してしまう。
自分も、ついこの間まで、こんな大波の中をサブサブと必死になって泳いでいた。
西尾幹二という人が、突然日本の教科書問題を提起し、南京大虐殺という歴史に真っ向から反論を始めたのはちょうど私が学生時代のことだった。
前述の通り、ゴリゴリの左巻きである私は彼の主張に怒り、それに反論するための資料を一人漁っていた時期がある。
あの時の、入っていかない感覚。
自分の求める答えが既にあって、それを裏付けるような資料ばかりが目の前に現れてしまう不思議な感覚を、今なら冷静に振り返ることができる。
人間の脳は、自分が見たいと思うものしか見ないのだ。
私が、ああ、自分は根幹から騙されたと素直になったのは、ほんの数年前に知ったこの、通州事件佐々木テン証言によってだ。
南京で日本軍が、どれほど酷い大虐殺をやったのか。
日本人である自分は、その事実を潔く認め、噛み締めて、反省し続けなければいけないのだと思っていた。
それでも、どうしても何か腑に落ちないこと。
なぜ、日本軍は突然ここまでの残虐性を、中国の人に向けるに至ったのか、という疑問。
だるま落としで、彼方にピュンと飛んで行ってしまったステップがあるように、何かが抜けている。
当時の日本人は、どちらかというと、中国の人や韓国の人を見下していた。
人は、自分よりも格下だと本気でバカにした相手には、残虐性を発動しない。
むしろ、後ろ暗いことをしているという自覚と罪悪感が根底にあり、
抵抗されるのではないか、バレるのではないか、立場を逆転されるのではないか、という恐怖があって初めて、
相手を必要以上に叩きのめそうとして、残虐性がたち現れる。
そこに日頃のストレス、生まれ育ちのトラウマが全振りされるのだ。
日本軍が残虐行為に至るまでの心理的変遷には何か飛躍がある。
でも、あの頃の時代背景や自分には知り得ない何かがあるのだろうって、当時の私はそこをごまかしてスルーしてきた。
この証言にある素朴な言葉の中には、私が見たどの写真どの証言にも勝る、グツグツと煮詰まっていく吐きそうなほどの緊張と、迫り来る狂気がある。
そして、私が知りたかったその心理的ミッシングリンクが、全て書いてある。
見下している無抵抗な相手に、突然凶暴な人間性を発動して殴りかかる。
そうじゃないのだ。
国土に踏み込まれ溜まっていく怒り。しかも外からやって来たその人たちは、金があり技術があり力がある。
表面、親切にしてくれ、でもその背後に提供してやってる、教えてやってる、
という侮蔑、不信、自分たちをどこか警戒する心理が透けて見える。
尊厳を、根元から踏みにじられる。そこに時代的なストレスと抜けられない絶望が積み重なっていく。
学生時代に私が調べた資料にあった、日本軍がやったとされた残虐行為の描写の数々は、ここにある、中国の人が通州に住む日本人にやったこととそっくりそのまま、同じだった。
この数年、陰謀論にどっぷりはまって何度も目撃して来たリベラルのコアの中心にいる人たちの得意技。
かわいそうな被害者として声をあげ、あるいはそれを擁護する善良な人間という隠れ蓑に、自分の行いを隠蔽する。
それがバレそうになると、自分を糾弾してくる相手にその全てを押し付けて、
いつでも誰にも反論しようもないほど綺麗な看板を掲げ、相手がいかに残虐であるかを大声で糾弾する。
やり方はいつだってシンプルだったのだ。
自分はリベラルな人間だから、その主張に賛同している人間だから、
だから正しい側の人間である、善良である、とばかりにそれを免罪符にして、考えることを放棄して来た部分が、私たちになかったか。
結局、リベラルなんていってそこに甘んじていただけで、実は深く考えていなかっただけじゃないのか。
乱暴な言い方をすれば、善良な仮面をかぶっていただけで本当は私たちは、
誰が強姦されようが殺されようが、深い部分ではどうでもよかったのではないか。
綺麗な看板を掲げた可哀想な弱者やそれを庇うパワーグループを批判すれば、立ち上がる側はそれだけで簡単に悪者になる。
誰だって、悪役になって人から責められ排斥されるのは恐ろしい。
でもその嘘臭さが、だんだんお日様の下に明らかになっていく。
そしてそうやって「左巻き卒業しました」と言うと今度は「とうとう目が覚めましたか」って小躍りしながら右巻きが寄ってくる。
突き詰めていってみればわかる。
左翼を極めて仲間を求め師を求めると、いつの間にか極右の有名人グループに入れられている。逆もまた然りだ。
そのカラクリがわかってしまった今となっては、
最近はあまり見かけなくなった、あの不快な大音量で街を走り回っていた右翼の街宣カーなんて、本当は左翼のお仲間だったんじゃないかとすら思えてくる。
なぜ南京だったのか。それは、満州につながっている。
だから、南京大虐殺というストーリーに私たちは反論できないのだ。
未だ明かされない、満州という大きな秘密。
でももう、手遅れだ。きっと分かった時には怒りを向けるべき対象は、もういない。私たちがこれ以上の投影に迷い込んで時間を無駄にしないように、水面下で着々と準備は進んでいる。
それはもう、陰謀論という言葉で括られた、実在するのかしないのかわからない謎の為政者なんかじゃなく、私たちの眼に映る、見慣れたその景色まで迫っている。
この方は、あの方は大丈夫だろうか、なんてつい余計な心配をしてしまうほど、徹底的に容赦なく、時代は全てを洗い流そうとしている。
わかってみれば拍子抜けするほどの稚拙な嘘。
わかってしまった手品のタネと同じだ。
先日、息子に公民の宿題を手伝ってくれと言われた。
近年、若者の自殺率が増加していて、その問題点と解決策のアイディアを出す、と言う宿題なのだけれど、解決策がまるで浮かばない、と言うのだ。
そんな解決策があるならもうとっくに誰かがやっているわけだけれど、
とりあえず宿題なのだからそれらしい回答をひねり出すしかない。
まずは、自殺率、と言うぼんやりした問題の中にある、なぜ自殺率が上がっているのかに焦点を絞ってみなければ回答も出てこないよね、と一緒に頭を付き合わせ始めた。
昨今の若者の自殺の主な原因は、将来への不安、貧困や家庭の問題なのだという。
今の若い世代は、生き方を見失っている。
髪を振り乱して我が子の塾の費用を捻出するばかりの親。
将来、あんな風に自分もなりたいとは、正直どうしても思えない。
それが彼らの本音だ。
申し訳ないけれど自分でも、今の私のようになりたいとは誰も思わないだろうなって我が身を振り返ってそう思う。
そんな風にしか生きられていない大人ばかりがいつの間にか、社会に溢れてしまった。
それなのに、最低ライン今の親のようになるためには、今、目の前にあるこのつまらない勉強を頑張って、
塾行って、部活も一生懸命やって、ヘトヘトになりながら背筋を伸ばして謙虚にお利口に、先生に気に入られて内申を稼いで。
そうやって頑張り続けても、なれるものは、親と同等かそれ以下の人生。
結婚するためには、将来子供を持つためには、最低でも年収はいくらなくてはいけない、なんてことを、今の子はよく知っている。
かと言って、一発逆転、数年前までは子供のなりたいものランキング1位に躍り出たユーチューバーも、どうやら飽和状態で輝きを失いつつある。
というか、お金さえ一定以上稼いでいれば、幸せなのか?
そんなまやかしにも、もう彼らは気づいている。
今の子供たちの中で、自分も将来、港区女子になりたいなんて夢見るマヌケはもう、1パーセントもいないだろう。
それなら、大谷翔平になって引退後はイチローになれれば幸せなのか?
一昔前のように、起業して六本木ヒルズに会社を持てば、勝ち組なのか?
彼らは全ての末路をもう、知ってしまった。
夢も希望もない。
打開策も抜け道もない。
教えを請いたいと思える年長者もおらず、
尊敬できる先輩、あんな風になりたいと夢を描いてモチベーションが湧いてくるようなモデルケースもない。
ブラック企業みたいな学校に疲弊して、疲れ切った先生たち。
最後は歳をとって、みんなから煙たがられ、
身体も脳も機能が低下していってしまうかも知れないという恐怖に日々怯え抗い、自分の話を聞いてくれるはけ口を探している老人たち。
子供たちだけじゃない。
本当に自分は何のために生きているのか。私たちはその意味が真剣に、わからなくなり始めている。
老若男女、幸せな人が一人もいない。
物質的な豊かさに幸せを追い求め続けた結果、私たちは生物としてのデストピアの究極を極めてしまった。
もうこれ以上、人間がどちらの方向にも発展も成長もしようのない世界。
先日一軒のレストランに入ったら、ロボットが人間のウエイトレスさんに混じって働いていた。
私のテーブルは残念ながら人間のウェイトレスさんが担当だったから、
私はロボットに配膳してもらっているお隣のテーブルを、恨まやしく眺めていた。
まだ自分でテーブルに乗せる、テーブルの上のものを下げるまでの動作は出来ないようだが、
それでも、「お待たせしました…」と無機質な声でテーブルまで注文を運んでくる姿は可愛らしいことに変わりなく、
きっとその性能もこれから向上していくだろう。
その、便利、可愛い、珍しい、という側面に注目するのか、
それとも私たちの仕事は、こうしてどんどんAIに奪われていく、という側面に注目するか。
いずれにしろ、この変化は私たちの生活にますます浸透してくるだろう。
結局、その宿題に息子が何と書いたのかは知らない。
ただ二人で話したのは、みんなが将来に不安があるなら、AIに取られないような仕事の絶対数を増やせばいいんじゃないかということ。
これからはきっと基本に返って、人と人のふれ合いが大切になっていくんじゃないか、ということ。
例えば、貧困家庭のために、こども食堂を開いている人たちがいる。
ただ貧しくて食べるものがない、というところをフォローするだけじゃない。
大勢が集まって食事をすることで、話し相手がいて、コミュニケーションをとる場所が出来る。
何も、自分の親だけが子供の話し相手である必要なんてない。
あるいは、こんな試みがあった。
独居老人を集めたアパートの上層階にある部屋を、若い学生さんたちに無料で提供した。
家賃を払うのはおじいちゃんおばあちゃんたち、ただしそこに住む学生たちは
おじいちゃんたちの要望に応えて必ずボランティアに参加しなくてはいけないという決まりがある。
買い物を頼む人、電球を替えてもらいたい人、掃除を手伝ってもらいたい人、庭の大きな枝木を掃除してほしい人。
学生たちにとっては、学生生活の合間に一風変わった話し相手がいて、
力になってあげられる活躍の場があって、たまにはご飯がもらえたりして、
結果、双方ともにいい関係性が築かれた。
試みは成功といえたのだが、さらに面白いのはそこに住む老人たちがみんな、
もう介助なんて必要ないほどみるみる元気になっていってしまったということ。
私の話を聞いていた息子は、だけどそんなもの、作るための財源はどうするんだ、と反論した。
やっぱり、これからの世代はもらうことすら出来ない年金なんてさっさと老人たちから取り上げて、もっとSNSを使って岸田を懲らしめよう。
それが彼らの意見。子供達の怒りは短絡的だ。
もう、財源だ保障だと、何か国に頼ろうという構造自体が限界なのだ。
この、国に守ってもらおう、助けてもらおう、国に逆らっては生きていけないという、私たちの意識を変えていく。
働ける世代、子育てしてる世代、子供たちと老人と分断すればするほど問題は積み上がっていく。地域ごとに、本当に今この地域に役に立つ、と思うものに財源を割いていけばいい。クラウドファンディングでもなんでもいい。
例えばある地域では、こんな例があった。
地域の政治家が、公立の学校の給食を、全部オーガニックにしたいと考え、実現しようとした。
当初、そんなの高くついて実現できっこないだろうと思われたのだけど、結局、給食の材料を全て地元の協力を仰ぎ地産地消でやってみたら、今までの既存の給食費とそれほど変わらない値段で実現できた。
さらに面白いのは、それが地元の農家の活性化に繋がっただけでなく、
その話を聞いた子育て世代が、自分の子供にもオーガニックの給食を食べさせたいってどんどんその地域に入ってきて、
地域の財源が上がって街が完全に活性化されてしまったということだ。
いろんな例を聞いて、確かにそれならちょっと実現可能かも、って思ったのだろうか。
そんな雰囲気の未来なら少しは生きていく価値があるかも、ってちょっとは希望を抱いてくれたのか。
息子の表情が、少〜しだけ明るくなった気がしたのは、気のせいか。
自分で話していて、私自身も、ああそうなんだ、と思った。
もうこの社会は詰んでいる。
でも詰んでる詰んでるって嘆くのではなくて、
詰んだ、ってことはこれから、
私たちがそれを刷新して、気持ちを新しくして、頑張って社会を作り変えていかなきゃいけないってことだ。
レゴで一番ワクワクするのは、まだすべてがバラバラで、さあこれから組み立てるぞって細かいパーツと設計図を目の前に広げてみたその瞬間だ。
行っちゃった系と、来ちゃった系。
あなたなら、どちらをやりたいだろうか。
私は俄然、行っちゃった系がやってみたい。
別に誰かに承認されなくても、頭おかしいって自分で自分のことを感じていても、
私は自分が納得して確信して腑に落としたやり方で、生きていきたい。
というか、結局それしか、全ての人が最終行き着く先はないような気がするのだ。
動画のこの方の言い方を借りれば、私たちに必要なのは、
知らず知らず自分がかけていたメガネに気づくしなやかさと、新しい別のメガネをかけてみる好奇心、これまでの自分を分析してみる知性と、新しい自分を味わってみる感性だけだ。
その探究心があれば、自分とは全く違うメガネをかけて生きていきたいと思う他者とコミュニケーションをとっていく面白さみたいなものが、内から込み上がってくるんじゃないだろうか。
みんながそれぞれでそれぞれの行っちゃった系を目指せば、
その都度、その時々の自分のレベルに合わせて自分より先に来ちゃった系の先達の言葉を指針にすることはあれど、
自分の中の絶対的に変わらない神なんていらないし、たった一人のものすごい情報提供者なんてのもいらないし、
自分の信じる素晴らしい神を信じない人を、断罪しようなんて思わない。
今もなお、世界の各地で戦争は続いている。
そこには、語り継ぐべき数多の悲しい犠牲者と遺族の物語があり、解決し難いと思える双方の言い分がある。
でも、人間を人殺しに仕立て上げるには、本当は大変な洗脳と時間、労力がいるのだ。
それなら、本当に戦争をしたがっているのは誰なのか。
「人の皮を被った獣を相手にしている」「こんな相手は皆殺しにしてしまえ」
裏では本音を言いながら、彼らが戦争を正当化する世論を誘発するために使う常套句はいつも、「私たちは被害者」「攻撃されているから、戦わざるを得ない」。
結局、私たちの同情を誘うことでしか戦争の正当性を訴えられないのは、
私たちの本質にはどうしたって抗えない、愛があるからではないのか。
本当は誰が戦争をしたがっていて、どうやってそれを煽っていたのか。
それらがどんどん、明らかになる。
もうこんな陳腐な手品も、これ以上、きっと続けられない。
最近、2025年に大きな災害が起こるという警鐘を盛んに耳にする。
あるいは、イスラエルの次はいよいよアジア有事だという警告も散見される。
それに伴う、食糧難、地球温暖化、金融崩壊…
これだけ多くの人が揃って警告するのだ、確かにそれらに備えをするのは必要なのかもしれない。
それでも私は、新しい時代にシフトする真の転換は、きっと災害によってもたらされるものではないと思っている。戦争による爆撃や崩壊でもない。
だって、世界大戦をやったって、何度大きな災害を経験したって、結局私たちはその苦しみから立ち上がるたび、
物質世界、三次元世界を極める方向にさらに舵を切るばかりで一向に目覚めなかった。
今、根底から私たちの観念をぶっ壊しにかかっている時代の流れが私たちを運んでいく先にあるもの。
今度こそ、ああ、と全ての人が膝をつくほど打ちのめされて、失って、子供のように素直にならざるを得ないような何か。
それは、家を奪われる、財産を失う、食べ物がなくなり、困窮し、崩壊した街をそれでももう一度立ち上がって一から立て直す、
そんな自分たちが可哀想な被害者でいられるような何かではあり得ない。
被害者や加害者が、うまいこと入れ替わり立ち回って逃げおおせることが出来た今までのように、誤魔化しの余地すらない何か。
もっと精神的な絶望、心理的な絶念。
自分こそがそれをやってしまったんだ、と根元からへし折られ、両面宿儺の前に引きずり出された呪霊よろしく、真摯にならざるを得ない局面。
あの人が自分にそんなことをするはずがないと信じていた人から、本当は自分はどう扱われていたのかという、ひん剥かれるような気づき。
こんな嘘ばっかりのペラペラの愛を、あたかも真の愛情であるかのようにみんなが騙され、求め、ねじくれ、歪み、
自分もまんまと参加して、気色悪い怪物のように肥大化してしまった社会の本質。
私たちが今まで人生をかけて一生懸命にやって来たことは何だったのか。ドカンとバケツの水をいきなりぶっかけられるような衝撃が頭の上から降ってくる。
そんな有史以来体験したことのない衝撃をもたらすものは、
申し訳ないけれどやっぱり、私にはワクチン以外に思い至らない。
詳細は諸説あれど、陰謀論者なら誰でも一通り心得ているような、アレの中身がなんのかについて。
今のところ、一部の被害者を置き去りにする形で、なぜこんなことが必要だったのかという疑問を、3回目、4回目で途中棄権した人たちが全力でスルーしてなかったことにしようとしているその背景に、
本当はどんな計画、どんな陰謀があったのかについて。
最終の最終に決着する真実が何であるかは誰にもわからないけれど少なくとも、
あたかもこれが最終結論である、という絶望的な真実が明らかになって全ての人が魂から凍りつくような展開は、きっとやってくるのではないか。
それは、どこかの有名な預言者が言っていたから、
マドモワゼル愛先生が言っていたから、
あるいは一部の人しか知り得ない、何か上層部の人からこっそり教えてもらったから言ってるんじゃない。
ただの簡単な、因数分解だ。
そしてそれこそが、私たちの今のこの詰んだ社会を次のステップへ昇華させるきっかけになる。
それにしても、この大きな時代の転換点に来て、縄文というワードがあちこちでいろんな角度から注目を集めているのは本当に面白い。
縄文と持て囃されるその源泉は、一体どこにあるのだろう。
日本人だけがYAP遺伝子という特殊な遺伝子を持っている、なんて言われるが、
何度も異国人と交わり異文化を受け入れて来た現代日本人は実は混血も混血、
そのYAP遺伝子だって今や、沖縄と青森にかろうじて色濃く残っているのみだとする説もある。
大陸では、強制的に流れていく時間や世代に逆らいながら、意地でも民族という境界線に括られて生きている人たちがいる。
そして2000年も前から民族という境界線を引いて、今も争っている。
そんなに、民族という差異は、大切だろうか。
世界中の人のDNAを遡ったら、自分をアメリカ人だと思っていたあなたの遺伝子の90パーセントはアフリカ系で、
自分をアラブ系だと信じているあなたの遺伝子の90パーセントは実はアジア系だった、なんてことだってあり得るんじゃないだろうか。
日本には、日本人の顔をしたたくさんの元外国人が住んでいる。
外から入ってきた人を為政者として認め、その歴史を神話にして今も脈々とその系譜を守り大切にしている。そういう人間が集まって、「日本人」という不思議で独創的であやふやな、アイデンティティを作っている。
今は比較的最近入って来た外国人を、外国人が入って来た!土地を乗っ取られる!私たちの稼いだ税金が盗まれるぞ!って指差して騒いで恐れているが、
それも時間とともに吸収して、きっと和合してしまう。
それが、混血の末裔である私たち日本人だ。
このあやふやな混血日本人と縄文とをつなぐものは、一体なんなのだろう。
その力の根源はなんだろう。
小さな龍みたいな形をした、この不思議な土地にあるのか。あるいは、全ての人が目指したくなる、太陽が昇る場所、世界の極東にあるという立地に秘密があるのか。
最近は、日本語という言語にこそ、その秘密があるのではないかという主張をよく聞くようになった。
古語なんかわざわざ古文漢文の授業で煩わしいレクチャーを受けなければ私たちはそれを解読することもできないし、
そうやって苦労して習得して意味は取れても、実際どのように発音していたのか正しく再現することも出来ない。
縄文の時代に話されていた言語なんてさらに、今の私たちの日本語とはきっとかけ離れたものであることは必至だ。
それでも私たちの日本語に秘密があるとしたら。
長い時間の中で、古語から消えていったものはなんだったのか。
逆に、今も受け継がれているものはなんなのか。
なぜそれは、自然に受け継がれているのだろう。
考えれば考えるほど不思議だ。
そして本当にそんなものがあるのなら、脳科学的なアプローチなのか言語学的なアプローチなのか分からないけれど、それはこれからみんなで全力で解明していく価値があることだ。
そして、私たちが頑張って外国語を習得して、そこでわかったことをきっと、世界に広めていかなきゃいけない。
かつてこの国に流入してきたものを、今度は私たちが温めなおして放出していく。
とても不思議なことだが、この時代の大変革が今のように表面化する直前、私は自分の人生にとんでもなく絶望していた。そして、なんとかそこから抜け出す方法を必死に模索し、数年前からカウンセリングを受け始めた。
以来、私の世界も、小さく小さく、でも確実に変わって行っている。
何か外側が変わったわけではないのだ。
本当に変わったのは、私の、中身の方だ。
例えば以前は、大勢の人に会った日には、あの場面この場面、あの人この人、一つ一つコマ送りのようにその日の場面がフラッシュバックして、一人反省会が始まってしまって眠れなかった。
でも、最近は大人数とわいわいやっても、夜になるとひたすら疲れてそのままコテンと眠ってしまう。
そんな変化を、カウンセラーに話してみたら、
交通事故に遭った人がスローモーションのようにコマ送りでそのシーンを記憶しているように、緊張していると、人間の脳というのは細かく眼に映るものをモニターして記憶してしまうものなのだ、と教えてくれた。
そしてそれを、何度も巻き戻したり取り出したりして検証しようとする。
以前の私はそれを、ALSOKよろしく24時間体制でやっていた。
どうりで生きるのが大変だったわけだ。
緊張が緩んでくると、自分、こんなに何も覚えられなくて、バカになっちゃったんじゃないかと思うよ。
といってカウンセラーの先生は笑った。
だけどそれが、普通の状態だからね、と。
私も最近、何かを思い出したり、これから起こりそうなことに警戒、予防を張ろうとする機能が低下して来て、
自分がどんどんバカになっているような気がして来ていたところだ。
ふと気をぬくと、温泉に浸かって弛緩しているように、脳みそがふわふわしている瞬間がある。
緊張がなければ、今日あったことも過去も、もうほんとどうでもいいし、未来だって心配じゃなくなる。
ただ、今この瞬間に、静かにぽてんと自分がいるだけだ。
全ての事象に対して、全ての人に対して、もしこんな状態を保つことができたら、どんなにか楽だろう。
そしてこの状態で、目の前の何かに夢中になって極限の集中力を発揮していたら、その時のドーパミンは、どれ程の気持ち良さを私たちに味あわせてくれるだろう。
これがきっと、よくスピリチュアルとかなんだかよく分からないけど界隈で言われている、イマココ、という境地だ。
座右の銘なんてカッコいいものでもないけれど、子供の頃から、なぜか心に確信していたことがある。
”人生には、意味のないことは起こらない”
あの時の絶望は、このタイミングに照準を合わせて落ちて来たのだ、って今はそう思う。
そこからの進捗の遅さに、イライラして落ち込むこともある。
でもきっとこの先に何かがあって、やっぱりこの遅延にも意味があって、またそこでばったりとタイミングが合うように、そんな風にこの世は仕組まれている。
ずっと苦いものを食べさせられて来た、それで今は舌がしびれちゃってる状態、
でも今、だんだん苦いものを食べなくなって、まだ痺れが取れないから自分の生の感情がわからない、それが現状だけれど、
これからは少しずつわかるようになりますよ。
それも先日、カウンセラーの先生に言われたことだ。
私だけじゃないはずだ。
きっともうじき、その痺れは取れてくる。
私は自分が本当はどんな人と生きていきたいと思っているのか、最近、ようやくその答えがわかるようになって来た。
というか、その自分の中にある感覚を、ようやく言語化できるようになった。
私は、心が素直な人と一緒に生きていきたい。
ほとんどの人は多分、自分のことをわりかし「素直」な人間だ、と分析している。
でも、本当に自分の心に素直になることについて真剣に考えたことがある人ならば、その難しさを知っている。素直になることの困難さをわかっている。
自分に素直であると言うことは、生まれつきの性格とか、なろうと決めたら出来る、というようなものではない。
私たち一人一人が生涯をかけて一歩一歩、向き合っていくような壮大なテーマだ。
私たちが素直になれないのは、いつも根底に恐怖があるからだ。
そもそも素直が何なのか、どうやれば素直なのかがわからない。
つまり、自分が分からない。
だからまずは、どれほど自分が分かっていないのかに、一緒に気がついてくれる人と、私は生きていきたいのだ。
そしてそれでもめげずに、そこを一緒に乗り越えていける、強い人。
私と同じ、騙されるのが嫌な人。もう、ここを本気で抜けたい人。
だからこそ素直にならざるを得ない人。目指さずにはいられない人。
抵抗する人もいるだろう。怖いのだ。勇気が出ない、それは仕方ない。
でもこれからきっと、バケツの水をぶっかけられた私たちのうちの何人かの、
その素直さと向き合うブレイカーが、バッチンと音を立てて上がるだろう。
私はもう、来ちゃった系の人の間を、目新しい真実っぽい情報を求めてあちらこちらと探し回るのは、疲れてしまった。
だから、自分で行っちゃった系を目指す。
ただこの感覚を、合ってるのかな、ってひとつひとつ研ぎ澄ましながら腑に落とせるまで繰り返していく。
覚悟を決めてしまえば、それはそれは静かで、笑ってしまうほど穏やかで、
心地よい安心感、暖かい感覚がどこまでも広がっていく。
縄文、なんて言われても私たちにはあまりに遠い祖先のことで茫洋としている。
それでも、それはどんな感覚なのだろうかと少しずつ少しずつ、想いを馳せていく。
この数年、セラピーの一環で、年末にヒプノセラピーを受けるのが恒例になっていた。
以前お世話になっていた先生がやめてしまって、去年は受けることが出来なくてとても残念な想いをした。
でも実はひょんなことから、最近また信頼できる新しい先生に出会ってしまった。
だから今年の年末は、また大好きな前世療法を受けにいく。
もう、申し込みしますと先生にお伝えして来た。
前世療法を受けるには、まず、自分の潜在意識に何を見せて欲しいのか、テーマを決めることが必要になる。
「どうして自分は、自分では何もできないと思ってしまうのか」
「自由だった過去生では、自分はどんな感覚でどんな人生を送ったのか」
今までにもいろんなテーマを設定してみたのだけれど、
その都度見せられた前世はいつも、予想していた回答とは全く別の角度から答えがやって来て、自分で自分に驚かされた。
今年のテーマはもう、決まっている。
「私がこの人生で本当にやりたいことはなんなのか。そのヒントとなる前世を見たい」
こんな前世がいいな、でもやっぱりあんなのかな、って妄想は膨らむけど、またきっと、予想の斜め上の人生を私の潜在意識は見せてくるだろう。
私は自分に、ワクワクしている。
これから私たちはどんな世界を、この潜在意識と一緒に見に行くんだろう。
少なくとも大人として、次世代の子供たちをこれ以上、失望させないように。
あんな大人になれるなら、まあ人生悪くないよなって思ってもらえるようなそんな人生を。
そしてその背中を、誰かが見つめていることにも気がつかないぐらい夢中になれる人生を、
目指したいなと思っている。
とても楽しみだ。