#白饅頭日誌 に寄せるエッセイ
5ちゃんねるを徘徊していたら、こんなレスを見つけた。
弩正論だ。
そのくせ「自分は自然派ママと違って賢いんだ!だって文が主体のSNSにいるのだから」と思い込んでそうなところを見ると、自然派ママより数倍救いようのなさが目立つ。
◇
以前から私は「落ち度なくチー牛堕ちした人間もいるはずだ」「救う余地がある者をチー牛沼から救い出して、負のリビドーから解放してあげたい」と思って行動してきた。この行動がどれくらい有効かは置いておいて、この考え自体は今でも間違ってないと思っている。
インターネットという洪水にチーの方舟を浮かべ漕ぎ出し、チー牛予備軍の良心を再び引き出したいという望みゆえにである。
◇
よくnoteを使っていると頻繁に彼のアイコンを目にするし、僕と彼を同時にフォローする人だっている。主張は真逆なのに。
以前にも書いたが、白饅頭のnoteを買っているようなチー牛はステージⅣであり、およそ助かる見込みがないだろう。エボラ出血熱では全身から血を吹き出すという最期であるが、チー牛の場合はより地味かつ悲惨である。誰にも知られずに、6畳程度の和室で孤独死する宿命が待ち受けているのだ。
◇
YouTubeを見ていると、女性ファンの間口の広さに驚かされる。堀元見はおろか、ラランドのニシダにすら「ニシダとデートする想像したら優しくてイイ……。」みたいなコメントがついているのである。
翻って白饅頭界隈はどうだろうか。そこのチー牛たちは口々に「脱チーの努力なんて無駄だ!」「チー牛だって人生を楽しむ権利がある」などとのたまう。
では本当にそうなら、彼らはチー牛としての一生を楽しんでいるのだろうか?楽しんでいるのなら、なぜ白饅頭のnoteを買ってまで陽キャを叩く必要があるのか?
◇
楽しくないと思うのであれば、たとえ失敗したとしても脱チーを試みることは有意義である。
仮に垢抜けが完璧でないにせよ、「こんな無惨なチー牛からこれだけ見違えた」という姿が可視化されたとき、少なからぬ女性たちはそれを評価してくれるだろう。
チー牛が救われる道筋はここにある。確かにクラスや職場などの狭い空間では、そういうガチ恋女と知り合うのは難しいだろう。しかし、より広く自分のことを知らせば、必ずガチ恋してくれるちょっと腐った女の子がきっと出てくるハズなのだ。さぁ今からでも遅くはない友達に写真を撮ってもらってTinderに登録しよう!少なくとも白饅頭のnoteを読み耽ったり、Xに張りついたらするよりも何倍も有意義な時間の使い方だ。
そしてそれもしたがらず、むしろ自分は被害者なのだから加害者である女に媚びる必要はないと思っているチー牛は、1匹残らず孤独死の運命を免れないであろう。彼らがその運命を辿るのは女性のせいでもアファーマティブアクションのせいでもない。
その譲歩したがらない、歪んだ自己愛が人間関係まで歪めてしまった成れの果てである。女が加害者に見えるのは事実を客観視する能力があるからではなく、その強すぎる自己愛で自分を哀れんでいるのだ。
彼らがどうnoteでこの世の不条理を説き伏せようとしても、絶対に世の中には届かないだろう。
どんな政治家だってnoteを書き散らしているだけでは当選しない。家々で頭を下げ、街頭で拡声器を携える泥臭い努力をして初めて有権者の信頼を得るのだ。
眉を剃りもせず、「俺たちこそが本当の被害者であり弱者なのだ」といくらnoteやXで喚いても、その時点で「チー牛くっさ」と疎まれるだけなのだ。
だから白饅頭のファン諸君は、ぜひ自分を変えずに世間の風当たりを変えようと努力してみてほしい。すればするほど北風は強まるし、その北風が君の酸っぱい匂いを運んで行くだけだろう。臭いまま生き続け、レジのバイトしか女性と話さず、臭い腐乱死体になって見つかる。そんな人生を「それでも脱チーするよりは楽しい!」と空虚な強がりをしてみてほしい。その強がりも、ネットの数多ある不人気なアカウントの一つとして、すぐに忘れられて消えていくのだろうから。