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JKローリングと氷河期弱男、アップデートに遅れた悲劇

 ハリーポッターシリーズは、全巻読んだ人よりも、映画を全作見た人口の方が多いだろう。そういう人から、よく「ハリーポッターシリーズは数作節約できるよ」みたいなことをいう奴が出てくる。
 全く分かっていない。ハリーポッターシリーズの醍醐味はその「学園生活あるある」であり、ウザい教師や図書館司書、規則破りなどがユーモラスな筆致で描かれ、「こんなこともあったなぁ~」と自分の青春を追体験できるところに面白さがある。
 私が読破したのは、死の秘宝が発表されて間もない小学生の頃で、それ以来、少なくとも5回は周回したと思う。何回初めから読んでも、熱中してしまうほど惹きこまれてしまう様はまるで魔法だ。

 さて、このハリーポッターシリーズを記したJKローリングは、かつては英労働党の支持を公言するなど、進歩的な政治傾向でも知られていた。ハリーポッターを読めばわかると思うが、宿敵ヴォルデモートのモデルは明らかにゼノフォビアを抱える政治家であり、その純血主義の始祖ともいえるサラザール=スリザリンのモデルはポルトガルのファシスト独裁者サラザールであることを認めている。
 しかしそういった時代も一昔前のことで、今ではトランスジェンダーの女性を敵視するインフルエンサーとして悪名を広めてしまった。ハリーポッターシリーズのファンとしては非常に悲しいばかりだ。

 私は、彼女が政治傾向を変えていたとは考えていない。むしろ、変えていないからこそトランスヘイトに染まってしまったのだとも考えている。
 彼女は、フェミニズムの勃興をまさに目にした世代だといえるだろう。しかし、1980~90年頃、フェミニズムで大きな存在感を見せていたのはウーマニズムだった。
 1979年、イギリスは初めて女性を首相に任命した。その当時、政界と財界は男に占められており、そこに社会進出を阻まれていると感じる女性は少なくなかったはずだ。男に支配されている社会は優しさが足りず、競争的で権威主義的だ。この閉塞を打破するためには、女性らしい優しさとつながりが必要だ。というのがウーマニズムの考え方である。
 近年フェミニズムやジェンダー論を学んだ方は「あれ?」と思うだろう。そう、現代のフェミニズムの考え方は脱ジェンダー。女性らしさと男性らしさを解体し、男も女もともに職場で昇進し、ともに家事を分担すべきだという考え方だ。ウーマニズムは、旧来の女性らしさを重視する意味でむしろ反対だともいえる。
 私の体感だと、ツイフェミと呼ばれる人々のかなり大多数が、ウーマニズム的なトランスヘイトを併発している印象がある。フェミニズムの本をまともに読まず、アップデートされていない女性らしさをアイデンティティとして捨てず、アイデンティティポリティクスに勤しんでいるように見える。

 JKローリングは、恐らくこの女性らしさを捨てる、という女性解放の現代的なアプローチをなかなか受け入れられなかったのだろう。女性は女性らしく生きるのが自由な生き方だという考えに慣れると、誰でも自分のジェンダーを選べる、誰でも女性になれる社会はむしろ男性的に映ったに違いない。

 アップデートに遅れた悲しみは、今画面の前で貧乏ゆすりをしながらこの記事を読んでいる氷河期世代の方々も同じだろう。
 氷河期世代の親世代は恐らく今は70代前後、やっとお見合い婚が時代遅れになってきた時期だが、丁度成人し社会に出るころにアニメ『サザエさん』が放送を開始した世代だ。
 友達に家に上がったら、高い割合で母親は専業主婦をしていただろう。また、親から馴れ初めを聞いたかもしれない。いつしか良妻賢母を迎える。夫の仕事に口を出すのはタブーだが、その代わり夫は妻の聖域であるキッチンに入ってはいけない。
 氷河期世代の記憶には、子どもの頃に見た大河ドラマ「春日局」が残っているかもしれない。橋田壽賀子のドラマは当時の家父長的なドラマ群に対して女性の活躍にスポットライトを当てる画期的なフレームワークだったかもしれないが、今にしてみればその眼差しはウーマニズムに近かった。

 今までのジェンダーロールと、氷河期世代の生き方が根本から覆ったのは、バブル崩壊から始まりリーマンブラザーズと続く長い不況であろう。氷河期世代はどの女の子と結婚しようか考える前に、食い扶持を繋ぐのが精いっぱいの状況を強いられたのである。よしんば結婚したとして、女性も働かなければ子どもも真っ当に育てられない最初の世代になったのである。
 派遣労働を強いられた彼らにとって、「セクシャルマイノリティで生きるのは辛い」という言葉は、ぽっと出のよくわからん変態が、マジョリティであり就職難にあえぐわれらよりも被害者ヅラしていると癪に障っただろう。

 厳しいことを言うが、中年になってモテない男の生きづらさより、トランスジェンダーの生きづらさの方が極めて苦しい。未だにトランスジェンダーの社会的立ち位置についての設定が議論されている最中であり、その間に好奇の目や蔑視がいつ降りかかるか、四六時中怯えながら生きる必要がある。

 われわれZ世代は、テレビでもうマツコ・デラックスで笑うことに抵抗も無くなり、学校のクラスには須らく冷房が設備され、体罰は社会問題としてニュースで報じられる時代になっていた。ヒョロガリの私も、アインシュタインの稲田も、いじめられずに社会に出られるようになっている。今氷河期の方々が「学校で大便をしていたらイジられた」と語れば、驚きを持って迎えられるだろう。

 日本は確実に住みよい社会となっている。しかし、就職難に直面した就職氷河期世代は、妻を迎える経済力すら貯えられず放置されることとなった。専業主婦を持つ家庭で育ったのに、それは彼らに手の届かない、上級国民の贅沢品と化していた。棄民されたのである。
 このアップデートの持つ最大の問題は、個人の価値観のアップデートは自己責任とされ、これに対応できたものだけが社会で温かく迎えられるようになった点である。アップデートはリベラルなものであったが、それが影響を与える個人に対しては、ネオリベ的な運用ともいえる代物だったのだ。
 アップデートがとり残した棄民への救済措置はあまりにも貧しかった。そういう男性たちが今は弱者男性になっているのだろう。
 彼らに与えられたセーフティーネットともいえるコミュニティは、2ちゃんねるとTwitterという、便所の仕切り壁だけだった。

 このアップデートから学べるのは、行政がアップデートに取り残された人々に手を差し伸べ、相互理解の機会を提供すべきだったという教訓だろう。
 私は今からでも遅くないと思う。氷河期世代に正社員の雇用を斡旋し、居場所となるワークショップやサークルなどを行政が用意してもいいのではないか。昨今、行政が収益事業に参入すれば「民業圧迫だ!」と批判される時代は過ぎ、多くの企業が補助金を糧に経営されるようになった。今はむしろ、当時氷河期世代を棄民した行政が、LGBTsとともに、再包括の手を差し伸べるべきだ。そうすれば、氷河期世代もLGBTsについて理解を深めるきっかけになるかもしれない。

 もちろん、ゼノフォビア、トランスヘイトに勤しむ氷河期世代のネトウヨの咎は本人にある。本人がその差別性を乗り越えたいとまず感じなければならない。
 しかし、アップデートの一歩を踏み出す彼らを我々や行政は応援し、責任を負うべきではないだろうか。
 差別が消えないのは、差別をやめるというインセンティブが、社会で乏しすぎるからだ。

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