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日本に適しているのはゆとりでも詰込み教育でもなく「受験教育」

 日本はここ数十年で詰め込み教育の内省からゆとり教育、ゆとり教育の内省から脱ゆとり教育と教育政策の転換を数度経験してきた。私は脱ゆとり教育世代にあたり、最後のセンター試験を受験した。
 この教育改革を議論するにあたって、アメリカ式の主体性教育や、受験方式の多様化を支持し、「日本式の没個性な教育から脱却しよう」という声が聞かれることがある。
 私は教育学に造詣が深い訳ではないが、やめた方がよい。アメリカの教育体制は、黒人と白人などの人種間に経済格差があり、これを埋め合わせるために整えられたアファーマティブアクションと並行して整備されたものであり、日本だと無意味な混乱をきたす危険性が高い。また、社会学や政治学などを体系的に学ぶ前に課題解決アプローチをとって学ばせようとすると、子どもが体系性を十分に理解しないまま卒業してしまう可能性もある。
 そもそも日本は部活や内申など長らく独自の教育文化を醸成してきたので、文化的背景の異なるアメリカ式教育を導入するとアレルギーを発症しかねない。多忙がちで高学歴以外にも教員の雇用を開放している日本にとって、受検方式の多様化は推薦至上主義や内申至上主義を招く恐れもある。
 かといってゆとり以前の方式を没個性的であり学生の強みを殺しやすいと指摘する批判も理解できる。というよりも詰め込み教育批判は昭和式の窮屈な学校教育全体を見直すというコンテキストと捉えた方がよさそうだが、それでも詰め込み教育が個々の学生に目を向けてやれていなかった点は否みきれない。

 私の提案は詰め込み教育でもなく、ゆとりや課題解決型学習でもなく、受験教育である。

国語・英語の量的出題

 塾を通われた方ならわかると思うが、公立学校と塾では国語と英語を学ぶ方法が大きく異なっている。
 塾では初見の説明・物語文や英文が出題され、制限時間以内に解き、答え合わせとその解説を聞く、という流れが一般的で、おおよそテストと同じ方式である。
 対して学校教育では長々と教科書に乗っている文への教師の解釈を聞き、定期試験でもその解釈をしっかり再現できるかが同じ文で問われる。市販の参考書でも掲載されている文は同じだ。
 この差は塾に通わずに就職する人々に大いなる危険をもたらす。高卒のまま社会に出るようなマイルドヤンキー的人々は、初見の文を読んで理解する習慣を訓練しないまま卒業することになる。文を理解する際に「先生に言われた解釈をただ暗記すればいいのか~」という認識が修正されないまま世の中に送り出されれば、新聞や本をまともに読めず、YouTubeやTwitterなどの他人の解釈を疑わず受容するような社会人生活を送りかねない。
 読解力を鍛えるには場数を踏むしかない。学校教育でも、テスト式の読解訓練を繰り返すべきだろう。忘れがちだが、多くの学生は大学受験のほかに高校受験も経験するのだ。学校ではうつらうつらしながら教師の解釈を記憶するだけに留まり、家に帰って初見の文の読解訓練を繰り返すというのは本末転倒ではないだろうか。

受験科目への集中

 私は高校一年のとき、コミュニケーション英語・英語表現・古典・現代文・数学Ⅰ・数学A・物理・化学・生物・日本史A・世界史A・公民・技術・家庭・芸術・体育を受講していたが、結局受験科目は英語・国語・世界史くらいであった。
 私は大学入学後に地理が得意であることが判明したが、私の高校には地理の教師すらいなかった。
 義務教育ならまだしも、大学受験に用いない科目の定期試験に勉強時間を割くのは合理性が高くないように思える。こういってしまうと、「生物の基礎知識がないとホメオパシーなどに騙されてしまう!」といった声も聞こえそうだが、ではそうおっしゃる皆様は今もう一度生物のテストをしても赤点を回避できるだろうか?メッセンジャーRNAとか、覚えているだろうか。
 私は一年間受講したが全く覚えていない。ホメオパシーなどの疑似科学に対抗する手段は、学問の高校レベルの知識などよりもむしろメディアとの付き合い方にあるのではないだろうか。
 高校に入れば、もう大学受験科目に専念して良いのではないだろうか。国公立大学受験者は5教科で他の学生よりも秀でなければならない。他の科目に気を取られ、内申がよくなっても志望校に不合格したのであれば元も子もないだろう。良い成績で高校を卒業したとしても、低い成績で大学を卒業する方が未来は開けるのだから。少なくとも、以下のような学習環境を整えるべきだ。

  • (低学年までは)受験受講科目を簡単に変更できる

  • 受験に不必要な科目は早いうちに離脱できる

日本式ACT/SAT

 アメリカから学べるフレームワークもある。
 アメリカでもセンター試験(共通テスト)のようなフレームワークACT/SATというのがあるのだが、日本と違うところは、いつでも何度でも受けられる点だ。
 本年2024年の1月1日に能登半島を大地震が襲ったが、その中で受験生がテレビの報道取材に応じていた。地震があっても受験日は変わらないので勉強しなければならないとの話だった。しかし他地域の学生に比べて、後れを取りやすい点は想像に難くないだろう。
 ACT/SATはいつでも受けられ、受けた回数の中で最も高い点数が受検に利用できる。日本では体調不良や天災で受験機会を棒に振りかねないシステムだが、アメリカ方式は努力すれば努力した分好成績を反映しやすい仕組みになっている。日本もいつでも何度でも受けられ、最高得点を提出できる共通のテスト方式を整備すべきだ。

結び

 結局、学の入り口というのは高校での学習内容というよりも、大学での積み重ねの方が大きい。3年という中途半端なカリキュラムに期待せず、高校を大学の準備期間と定義した方が学びの本質に適うのではないかと考えている。
 教育学素人で恐縮なのだが、多くの人が大学受験に集中しやすい教育環境が整備されることに期待して止まない。

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