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資本主義分業制による想像力の欠如

今回は資本主義が生んだ社会的分業制とそれによる功罪を述べていく。

先ずは資本主義の功績だが、一番は利便性だろう。
これは現代人の多くが実感していることだと思う。

大量に生産されることで、「安価」なモノでこの社会は溢れている。
必要なモノは家にいながらネットで注文して、大抵2〜3日あれば家に届く。このような恩恵を我々は受けている。

しかしこれは大量消費するために、またはあなたの家にそのモノを届けるために、多くの人の労働が介在しており、その労働をあなたは消費している。

資本主義社会の場合、お昼に食べる予定の「のり弁当」は近くのコンビニなどで購入すれば良い。しかし、資本主義社会でない場合、その「のり弁当」を海苔、コメなどを栽培し、惣菜に使う野菜も育て、魚を釣ってきて、家で長時間調理する。それでようやく食べれるモノだ。
現代人でなくてもこんな長時間1食にかけている時間はない。
それだけ贅沢なものであるのだ。
しかしそれが400円程度と安価で食べれている。
その理由が資本主義の持つ分業制である。

農家はコメ、野菜を育てることに集中してもらう、海苔業者は海苔の栽培に集中、漁業は魚の捕獲に集中、運送業者は運ぶことに集中、調理はより細分化され、カットする工程、煮込む工程、揚げる工程などで分業化する。
それでようやく私達が食べている「のり弁当」ができるのである。
その労働をあなたがしていないだけで、その労働を他者にアウトソーシングしただけにすぎない。

資本主義の罪の部分はここにある。
「のり弁当」を買って食べるという行為において、我々はその背後にどれだけの労働者と自然から資源を頂戴しているのかを理解できているだろうか?
本来自分がしなければやらないといけなかった労働を、他者に外部委託、もしくは下請けさせているという実感はあるのか?下請けさせないと人件費が高額になり、あなたが払う400円で購入できるモノではないということを本当に認識しているのか?

1食1食を毎回永平寺の食事のように、向き合って食べているだろうか?

400円支払ったことで、我々は「のり弁」を所有したので、感謝をしなくて良いと考えていないだろうか?その感謝は400円に含まれていると勘違いしていないだろうか?
分業制による罪は、社会という大きな物語を自分という枠組みでしか、イメージできないということだ。それが現代の利己主義につながる。

お金を払えば何でも買える。
それは多くの人の労働によって成り立っているものだ。

それを忘れて利己主義になり、
拝金主義化した現代では社会のためという意識は希薄化され、
自分がいかにして金持ちになるのかだけを考えている。
それにより実体経済と関係のない金融経済が膨らみ続けている。
我々の生活に関係のない金融経済の膨らみは、実体経済をとうに超えている。実体経済に支えられている、金融経済はいつか崩壊する。

金融経済というヴァーチャルな世界で生きている人類は、気がついたときには現実世界をも崩壊させていることに、崩壊してから気がつくしかない。

自分の耳すら外部委託して
その崩壊の足音すらこの人類は聞こえなくなってしまったのか。

脳もAIに委託してしまい、考えることもしなくなった人類はこれからどこに向かおうとしているのか?

資本主義により生産性、効率化を求めた結果が今である。
そこにはなんの精神性もない。

もう一度人類は全てを実体験することで、精神性への回帰が求められているように私は感じている。

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