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もみあげ
私の通っていた公立の中学校では、全校生徒に毎朝校庭を走る事を奨励していた。一日一人10周くらいが目標だった。
走った数を各自記録して、さらにクラスで集計する。毎日クラス全員が走った距離を足していくと結構な距離になってくる。目標は日本一周で、クラスごとで競争をしていた。
始めた理由を問えば、先生たちは「クラスの団結」とか「基礎体力作り」とか「心身の鍛錬」とかもっともらしい言葉を挙げるだろうけど、走ることは本当に気持ちが良かった。授業前に全身の筋肉もほぐれるし、眠い頭もすっきりした。寒い冬は体が温まってやる気がでた。
そんな学校だったからか、合唱にも力を入れていた。課題曲と自由曲の2曲を、クラスごとに時間をかけてじっくり練習して音楽会で発表した。
音楽の授業では、音楽会に向けて何度も何度も練習をした。
合唱を歌う前には準備運動をした。教室の床に寝転がって腹筋を鍛える運動をしたと思う。そして起き上がれば、今度は発声練習。ドの音から一音ずつ昇って上のドまで行くと、今度は一音ずつ下がって下のドまで戻ってくる。
私はこの音楽の授業も、校庭のマラソンと同じく好きだった。
授業の合間に頭を空っぽにして、お腹の底からめいっぱい声を出すのが気持ちよかった。
音楽の内田先生は個性的な先生で、授業をはとても面白かった。
内田先生は吹奏楽部の顧問をしていて、大変熱心な指導で、吹奏楽部を地元の大会に出場させていた。大変厳しい面もあったようで、吹奏楽部の部員は先生を恐れていたが、普段はニコニコしていたので、一般の生徒からは親しまれていた。
笑った顔は、太った三宅裕司みたいだった。
いつも気になっていたのは、口元のヒゲだった。アンパンマンのように盛り上がった丸い頬と、口角の境目に深い谷が出来ていて、剃り残しのヒゲがあり、口角まわりがほんのり青色だった。
「剃りにくいのかな?」といつも思った。
とある授業の時、いつものように準備体操をして、発声練習も終えて、合唱の練習に入った。この時期、変声期を迎えている男子たちにとっては、出しづらい音階があるようで、全体で合わせても男子の声が弱かったりした。
「合唱なんてつまんねぇ。」と真面目に歌わない”やから”もいたと思う。
女子も大人しい子や、本当に声が小さい子もいた。
だから先生は、真面目に歌っているか、大きな声は出せているかをチェックするために生徒の周りをゆっくりゆっくり巡回した。
先生が近づいて来て緊張する。真面目に歌わなければ、と口を大きく開けて歌っていると、先生が私のもみあげを引っ張って、にっと笑った。
『げっ、歌ではなく、そこですか???』と心の中で驚いた。
自慢ではないが、私はもみあげが長い。
美容室で髪をカットしてもらう時、年配の美容師さんに当たると、
「ステキなもみあげですね。日本髪を結うと立派に仕上がりますよ。」
と、役に立たないどうでもイイことを度々言われて来た。
今日日、時代劇の俳優にでもならない限り、日本髪なんて無用の長物でしかありえない。
昔も今もティーンズは、ヘアスタイルを自分なりに研究して見てくれをよくするものだが、私は昭和時代の、田舎の流行に疎い中学生。シャンプーで洗ってリンスで流した後は乾かすだけ。
アイドルのヘアスタイルを研究しようにも、もみあげの長いアイドルは見当たらないし、相談する相手もいないので、考えあぐねるばかりだった。
男の子だったら良かったのに、と何度も思った。
それから私はもみあげと呼ばれるようになった。周りの子たちにではない。呼ぶのは先生だけだった。
今であれば、年頃の中学生の女子にそんなあだ名を付けたら、問題になっただろうが、おおらかな時代だったし、不思議とからかうような、けしからん!と声を上げる雰囲気では無かった。
別の音楽の授業の時。その日は唱歌の「ふるさと」を歌うことになった。
いつものように、先生が歌っている生徒の周りを巡回して、声を出しているかどうか聴いて回った。ひと通り回り終わると、私を指さして、一人で歌うように促した。
嫌ですとも言えないので、ピアノの演奏に合わせて「ふるさと」を歌った。
自分の声しか聞こえない。緊張して眼が泳いだ。
左側の窓に校庭が広がって見えた。
気持ちの良い風景と時間が流れた。
まるまる一曲歌い終わると先生は、
「こんな風に歌ってちょうだいね。」
とみんなに言った。
一応お手本としてクラスで歌ってから、歌がますます好きになった。
「ふるさと」と同じように、他の曲も歌えばイイんだな、と自信もついた。
歳をとっても、歌うのは好きだ。カラオケには随分行っていない。
台所に置いたアレクサに、思いつくままに曲のオーダーをかける。
台所仕事をしながら、懐かしい曲から覚えたばかりの曲、時にはアレクサが選んでくれた曲を口ずさむ毎日である。
もみあげは、今では白髪が混じるようになった。
毛根はまだまだ元気で健在。相変わらず悩みの種である。ワイルドになり過ぎないように、定期的に自分で形を整えている‥。