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攻殻機動隊 SAC_2045考 Nになる人生はユートピアなのか

Netflixで『攻殻機動隊 SAC_2045』シーズン2を観た。Nが支配する世界になることで世の中はずっと良くなる。江崎プリンはそう考えてシマムラタカシに協力する。Nになることとは、それぞれ自分の電脳空間の中で一種の夢を見ている状態であり、一緒に働いている人はいるけど、その人たちとの軋轢を何も感じないという状態らしい。そこにいる人たちも幸せそうに見える。確かにプリンの言う通りかもしれない。

人類の歴史が自己家畜化の歴史であることから、ある意味この状態は究極の家畜化と言えるかもしれない。家畜化は集団生活をする上で人類が身につけてきたというか、その方が繁栄できたからそうなってきたわけだけど、そこからはみ出した人たちも当然いた。近代以降はそういう人たちは病気や変な人として社会から排除されてきたし、その範囲は拡がってきたように思う。

全ての人をNにしてしまうということは、良い意味ではそういう排除をしないということにはなる。言い換えれば、ある意味どんな人でも飼い慣らしてしまうということだ。それでもNになることに何か割り切れないものがあるのも確かである。それは人がそれぞれ自分のメタバースに閉じこもってしまっているところにある。

そもそも人間が対立するのは、仲間として認められる人数に限界があり、それが150人位と言われていて、ダンバー数とも呼ばれている(詳しくはこちら)。電脳社会が進展した攻殻機動隊が描く世界であるならば、むしろこのダンバー数のリミッターを外した方が良いのではないだろうか。それによって全ての人類は皆兄弟姉妹(って何か聞いたことあるな)のように感じられれば、多少いざこざはあっても根本的な対立は避けうるのではないか。

ダンバー数があるのは、実際脳のサイズによる処理限界ということもあるとはいえ、物理的な身体の制約にもよるものです。要は親しい関係になるにはそれなりの時間をかけてやり取りをする必要があるということだ。電脳空間であればそのやり取りが数秒であっても数日のように思わせることも可能だろうし、同時に色々な人とのやり取りをすることも可能なのでダンバー数の限界はどんどん拡張されていくことも可能なはずだ。そういう方向でのNを目指すということもあったのではないか。人は親しい人に対しては酷いことはできないものだから。

最後に草薙素子がシマムラタカシを止めたのは、Nの方向性に対する疑義であり、別の方向性があるんだと言いたかったのだと思いたい。

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