我違う、故に我あり- 主体性とは何か

見たことにないものを見ることはあるか?:先日友人のアーティストと話をしていて、小さい頃の面白いエピソードを聞いた。子供のころに、友達と別れた後、何故か交差点で緑の帽子を被った男の子がうずくまっているシーンをはっきりと見た。後日、友達と会った時に、別れた後、その友達が交差点でうずくまってる変な男の子を見たという話をして、帽子の色とか、男の子の様子とか、自分が見たと思ったのとほぼ同じだったという。

このエピソードを聞いて思ったのは、人には言葉によらずともイメージを共有できる能力が備わっているのではないかということだ。そもそもイメージというものは、脳が作り上げているものなので、実際に見たことのないイメージを脳内で再生することは可能であろう。上記の例の場合、アーティストの友達が非常にインパクトのある状況に出会ったことを何らかの方法(物理的に何か伝わっているとは思うが)で伝えたのをアーティストの友人が脳内で再生したということになるかと思う。

主体性はいつ立ち上がるのか?:人は生まれた時には、主体性というか主観性(自分が自分であるという認識)はあまりないように思う。それは人は生まれたすぐに自分一人では生きられないから、周り(特に母親)との共感性が主体性よりも大事であり、主体性が強く発動していないのではないかと思う。この主体性があいまいな状態から徐々に個体として生きて行けるようになるにしたがって形成されていくのではと考えた。そう考えると上記のアーティストの小さい頃のエピソードも違った風に感じられる。つまり共感性の方が強い場合、その体験を言語以外で伝える能力も強くなるのではと感じます。

では主体性とは、どのようにして立ち上がってくるんだろうか。他者との共感能力から、自己認識・自己保存へと向かい、そして他者との生存競争に至る間にどんどん強くなっていくというのが現時点での私の仮説です。

言語と主体性:言語というのは人が生まれた時には外部にあり、そこにはルールが存在する。自己認識ができるようになった個人が社会の中で生きていくためにはこのルールを理解し、共同生活をするためのツールとして言語を学ぶ必要があった。そして徐々に言語を他者との競争の中で自分と他者との違いを示すためのツールとして使いこなすことが競争するうえで優位となり、逆に自分と他者との違いを強烈に意識させるものともなる。言語が発達して様々な知識が言語を通して得られるようになると、言語を通して知識を得ることや新しい知識を生み出せることが生存競争にとって大事になっていった。つまり言語こそ他者との差異を認識させ、主体性(主観性)を強化するものとして働くといえる。

他者との競争というのは、生存競争、つまりは子孫を残すための競争だったわけで、子孫を残せない年齢になると次第に競争からは脱落していったと思われる。類人猿と違い、ホモ・サピエンスが生殖能力が亡くなっても生き続けるのは、老人が子供を育てるという役割があるからと言われる。そこでは他者との違いを強く認識する必要もなく、むしろ子供との共感能力が求められたと思われるので、次第に主体性が弱まっていくと考えられる。

我違う、故に我あり:こう考えてくると主体性(主観性)というものは、もともとホモ・サピエンスが種として生き残っていくための手段として個々の個体に持たせ、個体として自立できるようになると共に強く意識されるようにし、年をとると共に弱まっていくもので、言語により強化されるものと思われる。他者との差異こそが自分が優れていることの証明というわけだ。だから主体性とは、「我違う、故に我あり」という認識とも言える。

経験や、言語による知識の獲得は人それぞれの個体にとっては重要なものだが、サピエンスという種にとっては、たいして問題ではないのかもしれない。では主体性は何故人にのみある(と思われている)のだろうか。

主体性と時間:もう一つ主体性を強化するものに、時間に対する感覚があると思う。チンパンジーとホモ・サピエンスの違いで言われるのが、チンパンジーは今、ここしか意識しないが、サピエンスは先のことを考えて悲しんだりするということだ。この時間に対する感覚も、言語が入れ子構造を持っているように言語を習得することによって生まれ、時間感覚があることで、昔の自分と今の自分との連続性を感じ、それもまた主体性を強化していると思う。

何故、この時間感覚をサピエンスが持つようになったのかはわからないが、この時間感覚も主体性にとって重要と思う。『ピダハン』を読むとピダハン族の言語には入れ子構造がないため、彼らは今、ここに生きているように見える。また仏教における瞑想が、いま、ここを意識することを目指しているのも、一旦獲得した時間感覚を体から忘れさせ(Unlearn)、言語の獲得前の状態の感覚を取り戻すためではないかとも言える。

主体性と身体性:仏教における瞑想は、心のありのままの状態を取り戻すことに主眼が置かれている。即ち、まだ言語によってルールの中に生きることに執着していることから、身体性を使って、一度それを外してみることを目指している。極端だが、言い換えれば身体と主体性は別物とも言える。「心脳問題」という哲学でよく知られた問題がある。これも言語が複雑になったことによって起こったのではないかと思う。要は身体的には同じことでも、主体的には恐ろしく違うものとして理解できる、それは言語が複雑になればなるほど、主体的にも複雑にフィードバックされると思われる。同じニューロンの発火状態がちがう主観性を生むということがあり得るということだ。

自分探しと異国への旅:若い時に悩んで自分探しの旅に出るという人が多くいる。そもそもこれまで述べてきたように主体性は、それまでの関係性によって築かれたものなので、異国や違う関係性の中に一時的に行くことで、瞑想によって得られるような関係性のリセットが少なからずできるのではないだろうか。とりあえずの試論ではあるが、自分なりにこれまでの色々なことが何か腑に落ちてきたように思うのである。

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