言語とは何か - 方言の方が感情が伝わるように感じるのはなぜ?
先日、濱野ちひろさんと山極寿一さんの『聖なるズー』に関するトークを聴いてきた。性における対等性を巡って展開されたトーク自体は面白かったが、一つ引っかかったのが、山極さんの「言葉のない動物は何を望んでいるかがわかるか、人は言葉があるので本当に望んでいるかどうかがわからない」という話だ。
言語の起源
言語の起源ということは、学問的にも比較的新しいらしく確定していないようだが、1つの説としてもともと歌うように感情を表していた言葉が、変異して感情以外のものを伝えるようになったことによってフィクションを伝えられるようになったというものだ。確かに山極さんの語るように現代の言語は複雑化しすぎて、自分の感じていることを伝えるのに苦労する。でも最初の頃の言語はどうだったんだろうか?というのが疑問だった。なぜなら言語は方言とかも含めるとものすごい数があって、便利さだけを追求するなら違う言語を使う意味はないように思えるからだ。
以前、関野 吉晴さんと山極さんの対談で、関野さんが人は弱いからこそ辺境を求めていて、辺境にいる人ほど病気と火に弱いという話があった。人は追いやられて別の場所を求め、そこで共同体を作ると思うが、当然最初のうちは周りの人々と見た目はそんなに違わないと思われるので、自分たちの共同体の仲間かどうかを識別するには、言葉を変えるしかなかったのではないか。言葉のイントネーションとかで、共同体の仲間かよそ者かを区別するための道具として使われてたのではないか。つまり言葉とは共感と分断のための道具というわけだ。
こう考えると共同体として自立性があり、他の民族からの支配を逃れていた場合、つまりある程度食物とかに恵まれた地域にいる場合、その言葉により感情表現が多くなるのではという仮説を立てることができる。より安定した共同体の方が、より複雑な感情を共有できるというわけだ。逆に食物とかが希少で他の民族の支配を受けた場合、被支配者民族は支配民族の言語を受け入れることになるが、それは知識として得られるものなので共同体の感情表現をうまく反映できない場合もあるだろう。以前にPepperの感情認識技術を開発した光吉俊二さんの話を聴いた際、日本語に比べ、英語の感情表現に使われる単語が20分の1程度という話を聴いたことがあったが、それは英語が本来使われている共同体を超えて大きく拡がったことと関係があるだろう。
共感性と言語
田舎に帰省した際に方言を耳にするとなぜかほっとすることがある。これは本来言語とは、共同体の内部での共感性を高めるためにあったのではと考える所以である。日本人はディベートが苦手というのは、言語により感情が伴うため、語られている事と語っている人を区別するのが苦手なのだということで、言語の感情表現の豊かさから説明できるような気がする。