『女は二度決断する』
よく聴いている映画をテーマにしたラジオ番組があるのだが、そのピックアップで『RHEINGOLD(ラインゴールド)』という作品が取り扱われていた。
調べたところ監督はファティ・アキン。
“三大映画祭全て賞を取っている”という新進気鋭の監督で、公開中の『ラインゴールド』を見る前にいくつか観てみようと思い手始めに鑑賞した作品。
『女は二度決断する』内容
ドイツ映画。主人公の女性カティヤは、夫と息子の3人家族で満ち足りた生活を送っていた。しかしある日、夫の経営する事務所の前で爆発が起こり、爆発に巻き込まれ2人を同時に失ってしまう。
その事件の捜査の中では、夫が移民であることや前科持ちであることなどにより、様々な偏見や憶測の目で見られることとなり、被害者遺族でありながらカティヤは非常に苦しむことになる。
※以降、完全にネタバレ箇所
物語の中盤では男女2人組が爆発事件の容疑者として登場し、夫の友人でもある弁護士と共に裁判を戦うシーンに移る。が、容疑者たちが実行犯である決定的な証拠がなく、第一審で彼らは「無罪」という判決が出された。
一審の判決後、彼女は、一度目の決断と行動を起こす。
自ら容疑者たちの足取りを追い、危険な目に合いながらも彼らが隠れ家としている海辺のキャンピングカーを発見。彼らが夫と息子に浴びせた爆弾を自作し、男女2人が外出した隙を狙ってキャンピングカーの下に爆弾を設置、起爆ボタンを握りしめながら男女2人が帰って来るのを待った。
しかし結局、彼女は思いとどまり、爆弾を回収し、その場を引き上げる。
その後、一晩、彼女は気が抜けた状態で過ごすが、スマホに残っていた家族で海に行った映像の中で、息子が「お願い、ママ来て」と呼ぶシーンを見、何かを思い立ったようにみえる。
翌朝、再び決断した彼女は再度男女2人がいる海辺へと舞戻り、最後は爆弾を自ら抱えキャンピングカーに侵入。容疑者2人とともに自爆する、というのがこの映画の結末だ。
『女は二度決断する』感想
タイトルにもなっている主人公が「二度決断する」心情の移り変わりは、明確なセリフなどは語られないので映像から読み解くしかない。
私が読み取ったのは、「一回目は制裁。二回目は虚無感からの逃避」という気持ちの変化だ。
一回目は一審で無罪とされたことに納得がいかず、反省の色も垣間見られない容疑者2人組に何とか鉄槌を下したい一心だろう。彼らが実際に使った爆弾と同じもの(非常に残忍な仕組みで人体を破壊するということが裁判で描かれる)を用意していることや、あくまで容疑者2人だけが巻き込まれるように仕向けようとしていることからも、強い復讐心が滲み出ている。
二回目の決断は、映像の息子の言葉「お願い、ママ来て」が引き金になっているような描かれ方だ。映像は、海に2人で入る夫と息子。浜辺で撮影担当をしている主人公に対して、息子が「ママもこっちに来て」と呼ぶシーンだ。
この時点で、容疑者たちに対する燃え上がるような復讐心は、すでにほとんど失われていると思われる。その前のシーンで担当弁護士から裁判の上告申請を進めようと誘われるものの、「もうやめたい」と諦める言葉を発しているからだ。
彼女は何かを思い「自らが制裁者の立場で鉄槌を下す」ことを断念した。ただし、大切な存在を失ったことによる虚無感からは逃げられず、「愛する家族の元へ行くために容疑者2人を巻き込んだ自死」を選んだ、それが大まかな気持ちの流れだと感じた。
ただ、「なぜ彼女が一度目に復讐を諦めたのか」についてはヒントが少ない。
いくつか可能性を上げてみる。
・このようなことをしても愛する2人は戻ってこないという事実に虚無感を覚えた
・自らの目的のために殺人をも厭わない容疑者たちと同じ精神に嫌気が指した
・ボタン一つ押すことで人生が変わる恐怖に尻込みした
恐らくは、1番目であるというのが、主人公の表情からも、流れとしても自然か?
主人公の心情の流れに対する考察は以上だが、結局この映画は何を描きたかったのか、観終わった時点では、そこがいまいちピンと来なかった。
そこで、ネットでインタビュー記事や解説などを拝見し、どうやらネオナチや当時のドイツ国内の情勢に対する知識がないことが理解を阻害している要因のようだ。
ネットの記事なども参考に読み取った結果、大まかなテーマは以下のように考えている。
・暴力という手段で何かを伝えることの虚しさ
・当時のネオナチのテロ行為に対する世論や警察の見解に対する批判
※特に参考になったファティ・アキン監督のインタビュー記事を貼り付けておく。
記事には以下のようにある。
暴力の連鎖についてを描いたものであるとすると、全体的にはまあ、しっくりくる。
ただ、主人公が自死を選ぶ二度目の決断やこの「二度の決断」がタイトルになっているところは、ややテーマの理解を阻害するのではと感じたが、どうなのだろう。
また、中盤の裁判シーンで登場した容疑者(男)の父親の存在も、何を意図したものなのか考察のしがいがある。
前半、偏見に満ちた捜査によって主人公は苦しめられるが、「残忍なテロ行為を行う人物の周辺人物もおそらく残忍な人間だろう」という偏見に対するアンチテーゼということか。
だとしても、件の父親のシーンは、唐突に出てきて印象的なシーンではあるが、ラストの流れには特に影響しないためにこの映画では浮いており、そういった箇所がそこかしこに見られるためやや纏りのない印象の残る映画だと思う。