頂く生命
世の中の物事には元がありその後にそれに似た真似事、若しくは簡易的な“風“の物が一般的、大衆に出回り受け入れられるという事が多々あります。
縄文人、海人達の魔除けの為の習慣的行為がルーツのタトゥーも然り洋服や、車、航空機や船、建築物のデザインが動物や植物等の自然造形物からヒントを得ていたり等。
飛躍的かもしれませんが人が登山やキャンプ等の謂わゆるアウトドア(言いたく無い言葉)又は旅に惹かれるのも原始の狩猟民族(移動民族)のDNAだと思っています。
しかし、謂わば〝風〝やアレンジして簡易的にしたもの、大衆的化した物にはどこか無理がくる様な気がします。鳥が自由に飛翔する為に費やした進化の時間は途方も無い年月を得た賜物なのだから科学が完コピすることは無理の様な気がするし、縄文時代の食生活が理想と言われてもそれを皆んなが均等に摂取する事もむりがあります。
言わずもがな必要な栄養を科学的に足す事も!
ありがたい事に自然農法で農業をやられている方のお陰、又は自分で始める方等、値段等買いやすさでは無く元がわかる正しい野菜(何処でどの様に作られた物なのかがわかるという意味で)が手に入りやすい時代です。
先日念願の狩猟免許(1種)を取得し、地元猟友会の師匠の猟(害獣駆除)に同行させて貰いました。睦月島の山中に沢山仕掛けた箱罠等を見回り、掛かっていれば止め殺しして持ち帰ります。動く獲物がいれば師匠が猟銃で撃つとこもみれるとこですがこの日は生憎。
エサになるヌカだけ食べてたりしたら補充したり罠の点検、補修をしながらミカン山の間の獣道を猟犬のリュウとイチと共に廻ります。繋がれていない伸び伸びと走り回る犬は見てて気持ちいいし可愛いがこの後野性本性を見せつけられる。
(因みに師匠は、犬が嫌いで完全に主人と使役(猟犬)の関係)
この日はシマシマの抜けたばかりの成獣猪が5頭(匹?)、ウチ一頭はリュウ達が追いかけて仕留めた。
止め殺しの補助をし返り血を浴びたりしながらも初の獣との接触に以外に冷静な自分に胸を撫で下ろす、というか奪う側が命にしっかり向かい合ってないと失礼な気がした。
返り血を浴びた瞬間だったのかも、命を頂いて生きていく者として今日が漸く境界線になる。
自分が食べている躍動していたであろう命への軽薄な有り難みや感謝との。