高齢女子とじじとコーヒーと。
昔は喫茶店でコーヒーを飲むと、タバコの臭いがしていたものです。
「煙のない場所で落ち着いてコーヒーを飲みたい」
そう思ってここ数年、家でドリップコーヒーを作っていた。昨年春、夫が脳梗塞を患った。約半年の闘病生活を終えてリハビリ病院から退院してきた。
退院してきた翌朝の食卓でトーストをいただきながら、夫はこう言った。
「僕、小指のあたりにほとんど感覚がないのだよね」
と。私はそれを聞いて、
「そうなの…。じゃあ、毎日のリハビリが必要ね」
毎日出来る左手を使うこと。日常の会話をしながら頭はクルクルと『リハビリ』になることを考えて目覚ましく動いた。紅茶を入れようと戸棚を開けた。そこにはティーポットがコーヒーポットと並んで飾ってある。
「有ったわ!」
夫に振り向いた私の手にはコーヒーポットが握られていた。
「きみ、それはコーヒーポットですよ」
「ねぇ。毎朝、コーヒーを挽いて下さらない?」
夫は眼を輝かせて頷いてくれた。
今まではコーヒーミルをテーブルの上に置き、グルグルと右手で豆を挽いていた。
その日から、左手で挽くスタイルに変更。本体を右脇の下に抱え不自由な左手で『ガリガリ』とコーヒー豆を2人分挽くのです。
夫は一生懸命に、春はそよ風を感じ、夏の朝は汗をかきながら、秋は長雨の音に耳を傾け、冬は寒さに縮こまった手を伸ばして、左手で豆を挽続けた。その真面目で一生懸命な姿が、私にはとても有難く感じた。
病を見逃した自分の無知、二人で年を取っていく恐ろしさ、続く介護生活。それら『心に沈んだ不安の塊』をコーヒーの『ガリガリ』という音が『不安の塊』を砕いていったのです。
コーヒーを挽き始めて8か月。今日、夫はこう言った。
「なんとなく左手の感覚がわかるんだよね。挽いていると、『ガリガリ』と手に音が伝わるんだ」
彼は少しずつ昔の手を取り戻しているのかもしれない。
毎日淹れるコーヒーの味に大きな差はない。けれど、立ち上がる湯気に思わず心がほっとするのである。
今日もまた、彼は一生懸命にコーヒーを挽く。私は熱いお湯を沸かしじっと待つ。ポルトガル式のやかんの先から立ち上る湯気にコーヒーの香りが立って行く。
今日もお気に入りのマグカップにコーヒーを分け入れた。
そしていつか、夫が左手でコーヒーミルをギュッと掴んで右手でコーヒーを挽けるようになったとき、私は彼が挽いてくれるコーヒーを心ゆくまで味わえると思うのです。
ささやかな『幸せ』を味わえる今を、私はとても愛おしく感じる毎日です。