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教員の仕事に「熱さ」は必要か?
日本では、「熱意のある教師=いい教師」というイメージがまだまだ根強いように思う。
そして、このイメージが形成されたのには、学園ドラマの影響が大きいのではないかと私は勝手に思っている。
生徒のために自分の時間を犠牲にしてひたすら奮闘する教師。
熱い語りかけによって、生徒の心を変えようとする教師。
そんな教師像が描かれているドラマはとても多い。
こういった学園ドラマ的「熱意」は、はたして教師の仕事において重要なのだろうか?
私は、「熱意のある教師=いい教師」という等式は成立しないと考えている。
今日はそのことについて書いていく。
教員の頑張りと教育効果は比例しない
まず、教師がどれだけ熱くなって一生懸命仕事をするかと、実際の教育効果は必ずしも比例しないと思う。
私は、近年少しずつ主流になりつつある「生徒中心主義(student-centered learning)」的な考え方を支持している。
先生がどれだけ活躍したかではなく、生徒がどれだけ活躍したか・頭を使ったかを重要視する教育観である。
私が中学生くらいの頃は、
教員がみんなの前で話し続ける。
話が面白い教員が人気になる。
そういった「教員のショー」のような教育がまだまだ主流だった。
そのような教員の面白い話からもそれなりに学びはあったので、必ずしも悪いものだとは思わない。
しかし、こういった教育方法は、生徒が挑戦する機会・頭を使う機会を確実に奪っている。
こういった考えに基づき「教員が授業中にほとんど何もしなくても、生徒が勝手に学習する状態」を理想と考えて、そこをめざして授業づくりをする先生が近年は増えてきている。
私も、授業内の活動はできる限り生徒に自力でやらせたいなと思って、授業を組むようにしている。
また、特に中高生の時期は、自力でやってみて失敗する経験をどれだけさせられるかが大事になってくると思う。
その中で、生徒は自然と様々なスキルを養っていく。
また、失敗した経験をもとに次の自分の行動を自然と調整していく。
そんなことは、教員が言わなくても生徒は勝手に、自然にやっていく。
もちろん先生は見守るし、そのための道具や環境を整えたり、精神的なサポートをする必要もあるだろう。
しかし、熱くなってなんでもかんでも手伝ったり、口出ししたりするのは、むしろ彼らの成長の妨げになってしまうこともあると思う。
だから、特に中学校・高校の先生には、「良い意味でサボる勇気」「生徒を放置する勇気」も必要だと思う。
先生の活躍する場面は減るかもしれないし、将来、「恩師」とは呼んでもらえないかもしれない。
それでも、ある程度放置されることは、生徒にとっては、自力でどうにかする力を身につけていく機会になる。
長い目で見ると、教員が生徒を放置することが教育効果を生むこともあると思う。
そこで教員に必要なのは、「熱意」ではなく、生徒が自力で出来る範囲と、サポートが必要な場面を見極める、冷静な観察能力なのではないかと思う。
「熱意」だけでは乗り切れない仕事が多い
また、学校現場には「熱意」だけで乗り切れない仕事がとても多い。
正直、冷静に頭を動かして仕事していく場面の方が多いように思える。
授業準備、公平な採点や成績づけ、事務作業、生徒指導、保護者対応etc..
この中で、教員の「熱意」が直接的に役に立つ仕事といえば、生徒指導(と保護者対応?)くらいなのではないだろうか。
しかし最近では、生徒も保護者も色々とセンシティブになっているため、「熱意」だけで対応をしていては思わぬトラブルになりかねない。
どうやったらトラブルを未然に防げるのか、どうやったら生徒や保護者に信頼してもらえるのか。
そういったことを冷静に考えたうえで言葉選びをすることが必要だ(と私は思っている)。
私の体感としては、教員の仕事の95%は頭脳労働で成り立っていると思う。
「熱意」を仕事で表現する場面はせいぜい数パーセントだろう。
学園ドラマは「教員のショー」
学園ドラマでは、教師の熱い語りかけによって生徒の心が変わったり、保護者の価値観が大きく変わったりする。
しかし、
教師としての自分がいかに活躍し、生徒からの人気を獲得できるのか。
名言を言って生徒の心をいかに動かせるか。
そういった教育観は、まさに「教員のショー」的なものだ。
一人の教員のショーが上手くいったところで、教育が上手くいっていると言えるのだろうか?
私は、短期的な変化や、特定の環境下においてのみの変化は、教育上の成功とは言えないと思う。
現実の教育とは、もっと長期的・包括的な目で、様々な大人が分業しながら子どもを育てていくというものだ。
保護者、幼稚園や保育園、学校、学童保育、地域、外部団体etc….
これらの様々な大人たちが協力して、子どもたちにどんな経験を用意してあげられるのか。
子どもたちの挑戦をどうサポートできるのか。
失敗する機会と、そこから立ち直る力をどう与えるのか。
そういったことに社会全体で取り組んでいくことが、教育の本質なのではないかと最近は思うようになった。
おわりに
なぜこんなことを考え出したのかというと、私があんまり熱くなれないというか、体温低めなタイプの教員だからです。
仕事を始めたばかりのころは、熱くなれない自分は教師としてなにか欠けているんじゃないかと思っていました。
でも、「教育は「教師のショー」ではなく、分業であり機会の提供なんだ」と思うようになってから、楽になった気がします。
私のように熱血になれなくて「自分は教師としてダメなんじゃないか」と思っている新人の先生がいたら、
「体温の低いあなただからこそ生んでいる教育効果がある」
とお伝えしたいです。
誤解を生まないために言っておくと、熱い先生は素敵だし、とてもまぶしいです。
色々と持論を語ってしまいましたが、自分もまだまだ新人教員ですので、何かご意見あればコメントください。
これからも、子どもたちの成長に関わる大人の一人として、謙虚に頑張っていければと思います。