教員が冬休み中に考えたこと(『チ。-地球の運動について-』感想)
長期休みは、色々と考えを巡らせたり、自分の日々の生活を改めて振り返ったりするのに絶好の機会だ。
私も、年末年始のお祭りムードを満喫しつつ、
普段は忙しくて見て見ぬふりをしている自分の思いや考えについて、のんびりぼんやりと思考を巡らせていた。
その中でも特に強いインスピレーションを受けたのは、『チ。-地球の運動について-』という漫画を読んだことだ。
正直、ここ数年で一番しびれた作品だった。
おそらくこれから先の人生でも、この作品の登場人物やセリフを何度も思い出すだろうし、それらは自分を助けてくれると思う。
今日は、この漫画から考えたことを、備忘録も兼ねて整理してみようと思う。
チ。-地球の運動について-
この作品は、15世紀のヨーロッパを舞台にした作品だ。
当時はキリスト教会の権力がヨーロッパ世界のすべてであった。
そんな世界で、教会公認の宇宙論である天動説に疑問を持ち、異端とされる地動説について研究した人々の生き様が描かれている。
(ただし、史実に基づいた物語ではなく、あくまで歴史を題材とした創作が大部分を占めているらしい)
最近はNHKでアニメもやっているし、かなり話題になっている作品なので、知っている人も多いだろう。
今日はあらすじなどは割愛し、私が作品から考えたことを書いていく。
作品を読んで考えたこと
1.権威に対する思考停止
この作品の大きなテーマの一つは「権威に対する思考停止」だと思う。
作品の中でいう権威とは、教会権力だ。
作品中では、
この世は罪に満ち溢れ、汚らわしく、苦しいものである。
だから死後に天国に行くことだけを考えて生きるしかない。
教会公認の聖書解釈を信じれば、死後に天国へ行ける。
異端思想に関わると地獄に落ちる。
といった思想がマジョリティである社会の様子が描かれている。
そして、大多数の人間は、教会権力の主張を盲信し、日々実践している。
多くの人は、日々の苦痛から天国への希望を抱き、それにより「死後の世界で天国に行けなかったらどうしよう」という不安を抱えている。
この不安が、思考停止による盲信を引き起こしている。
また、社会の仕組みは教会権力の持つ論理によって作られているため、その論理に反する思想は弾圧される。
作品中では、異端思想を持った者が厳しい拷問を受け、処刑される様子が描かれている。
要するに、教会権力が作った思想やシステムに乗っかってしまった方が、快適に生きられる社会なのだ。
そんな中で、
「それって本当なの?」
「教会権力に都合が良いだけじゃないの?」
「今の人生で、地球や宇宙の美しさを味わって何がいけないの?」
「死後の世界なんて、誰も見たことがないでしょ?」
などと疑問を抱いた人たちが、教会公認の学説である天動説を真っ向から否定する「地動説」の研究を進めていく。
しかし、教会権力によって、異端思想に対する厳しい弾圧が進められる。
そのため、地動説に関わったものたちは、後世に望みを託して死んでいくのだ。
2.学校教育も権威の一つ
15世紀ヨーロッパに限らず、権威を前にした思考停止は、昔も今も、社会のあらゆる場所で起こっていると思う。
その一つがまさに、私が働いている学校教育というシステムだ。
そもそも学校は、生徒に「学歴」を与える権利を持っている。
一人一人の教員が担っている部分は少ないものの、この権利は相当大きなものだ。
これはあくまで私の解釈だが、学歴とは、資本主義社会における分業と効率化のために、人間を特定の能力によってざっくりと分類したものだ。
つまり今の社会は、学歴によって職業選択が大きく左右される社会だといえる。
簡単に言えば、学歴が高い方が、人生の選択肢は確実に増える。
この権利が、学校という権威に対する思考停止を生んでいると思うのだ。
誰も人生で失敗したくない。
みんな不安を抱えている。
だから、みんな学校の言っていることを疑うのをやめて、とっとと従うようになる。
いい成績を取れば将来安泰に生きられる。
偏差値=賢さ。
先生の言っていることは正しい。
そんな論理を盲信して、一生懸命勉強した方が、スムーズに生きることができる。
疑問を抱くことは、むしろ人生の成功への足かせになる。
3.学校の権威に裏打ちされた、教員の暴力性
そして、教員は学歴を与える権利の一端を担っており、これまた権威を持つ存在である。
だから、教員にとって都合の悪い生徒の行動を、その意図に耳を傾けずに「問題行動」として一蹴することができる。
生徒にある行動を強制したければ、「やらなければ成績が下がるよ?」と脅すことができる。
そういった教員の権威性に基づく生徒対応は、教員間では一つの立派な教育法であるかのように語られていたりする。
そして、これらのことを分かっている生徒は、損をしたくないので学校側にこびへつらう。
この構造が、私には時に暴力的に見えることがある。
というか、ついこの間まで学生だった私が急に「先生」と呼ばれて、生徒の人生を左右する権利(成績をつける権利)を持ち始めたことに、違和感を感じずにはいられないのだ。
そして、長年教員をやっていると、その暴力性に気づかなくなっていくのかもしれないなと、先輩教員を見ていて思う。
私も、そうなるかもしれない。
それが、教員を続ける怖さだなと感じる。
おわりに:「?」を放置しないで生きる
ここまで、権威に対する思考停止と学校教育を関連付けて、思ったことを書いてみた。
これらを踏まえて、私が今年大切にしたいなと思う事、それは
「?」を放置しないで生きる
ということだ。
『チ。-地球の運動について-』を読んで、
思考停止とは、自分の中に浮かんだ違和感や疑問を放置したり、見て見ぬふりをすることなのだと思った。
時に、社会の仕組みに対する違和感や疑問は人生の足かせになる。
特に、自分の人生を左右しかねない権威の前ではなおさらだ。
違和感や疑問に対する感度をできるだけ下げて、無かったことにしたり、見て見ぬふりをしてしまった方が楽な時も多い。
そしてそれも、一つの生き方だよなと思う。
そんな人生を送る人を否定するつもりはないし、むしろ器用で賢い生き方だとすら思う。
でも、これまで2年近く学校で働いてみて、
自分の中に自然に沸きあがる違和感や疑問を無視することは、私にとっては結構苦しいことなのだと分かった。
(だからnoteを書き始めた)
そして、『チ。-地球の運動について-』を読んで、そういった疑問や違和感から何か新しいものが生まれて、世界が少しずつ少しずつ良い方に向かっていくと信じたいなとも思った。
学校の在り方を盲信する先生にはなりたくないし、教員の権力性に無自覚な先生にもなりたくない。
でも、何も考えないで漫然と教員をやっていたら、自分の持つ権威に甘えて、そんな先生になっていってしまう気がする。
そして、全教員が思考停止の状態で教員をやりつづけていたら、
学校教育はずっと同じままで、時代の変化に合わせて良い方向にアップデートしていくこともないだろう。
だから今年は、自分の頭の中に、小さな「?」が浮かんできた時に、
それを無視したり、なかったことにしたりしないで、
ちゃんと認識していきたいと思う。
そこから、自分にできることを考えてみたい。