
【恋愛掌編】あなたはいつもわたしを
↓前日譚です。よろしければこちらからどうぞ。
「ねぇ、デートしよ」
「しない」
ちぇー、と綺麗な顔を歪ませてみせるのが小憎らしい。全然堪えていないくせに。
「じゃあ、情報交換会としてランチならどうっすか」
「なにそれ」
にやっと笑って、芹沢くんが身を乗り出す。思わず避けると、ちらっと悲しそうな目をした。
…ズルい。そうやって、あなたはいつもわたしを。
「ミキさんは仕事に夢中で、自由になる時間を可能な限り仕事に割きたい。だからデートはできない。ね?」
「…そう」
「なら、僕と過ごす時間が仕事に資するものなら良くない?」
呆気に取られるわたしに、彼はにっこりと笑ってみせた。さっきの悲しそうな色はもうない。
「僕、自分で言うのもなんだけど法人戦略部のエースですよ。部長にも可愛がられてる。仕事に役立つ話、いろいろ提供できると思うけど?」
「えっいいのそんなこと言って」
「リスクと推進のコミュニケーションっすよ」
行く?
頬杖をついてわたしを見ている、整った顔。少しだけ憂いのちらつく瞳。少しだけ寂しそうな口元。
ズルい。そうやってあなたはいつも、わたしを。
「…わかった。行く」
やったね、と喜ぶ顔は変わらない。支店でいつも見ていた、可愛い後輩の顔。
でも今は少し、違う関係。
「なに食います?」
「なんでもいいけど」
「えー、決まんないパターンじゃん」
彼は飲食フロアを見渡して、あれは?と広めの定食屋を指した。
「いいよ」
「わー、初ランチで海鮮丼。色気ねーなぁ」
ふふっと楽しそうに笑う橫顏。背が高い。
「…いらないでしょ、そんなもの」
「まぁね?」
にこっと笑って、彼はどうぞ、と席を勧めた。
「どうっすか、和泉課長の下」
「うん、すごい。仕事のスピードが全然違う」
「そうなんだ」
どんな人?少し身を乗り出して訊いてくる、キラキラした目。仕事熱心な、可愛い後輩の顔。
わたしは上司のことを思い浮かべる。明確な指示、的確な判断、適切なフォローとフィードバック。でもなにより、
「見てる世界が違う気がする。わたしには見えないものを見てる。まだわたしが知らないところに、この会社を導こうとしてる。そんな気がする」
「…へぇ」
伝わるだろうか。何気ない指示のなかに、伏線がたくさん隠れているような。それを繋ぎ合わせていくと、見たこともない絵が突然現れそうな。
少し怖くて、果てしなくワクワクする、そんな感覚。
「なんかエロい、その表現」
「はぁっ!?」
思わず大きな声が出た。睨むと、芹沢くんは半眼で唇を尖らせている。昔、案件にダメ出しをするとよくこんな表情をしていた。
作ったむくれ顔。
「変なこと言わないで。仕事の話っていうから来たのに」
「そうですけど、もちろん僕には下心があります。ミキさんだって、それはわかってるでしょ?」
下心、って。
呆然とするわたしに、彼はやれやれと背もたれに身体を預けた。
「仕事が辛そうなら、付け入る隙があるかなー、って。それくらいは期待しますよ」
「…付け入る隙、って」
わたしのほうが恥ずかしくなる。ほんとにズルい。
「…なんか、最近態度違いすぎない?びっくりするんだけど」
「そりゃね?」
頬杖をついてわたしを見てくる、上目遣い。少しだけ微笑んだ口元。そんなひとつひとつが、全部様になっている。
「可愛い後輩のままじゃ振り向いてもらえないって、わかったから。こりゃ押すしかねーな、って」
言葉を失くすわたしに、彼はにっこりと笑う。
「僕のこと、チャラいと思ってるでしょ?」
「うん」
「即答かよ」
ははっと楽しそうに笑う。
「まぁこんな見た目だしね?数字も上げるし、そういうふうに思われることは多いけど。でも僕、実はかなり一途なほうです。しつこいとも言うかも。案件も、好きな人も、これは決めたい、と思ったら諦められないんだよなぁ」
「…それが、なんでわたしなの」
「あ、僕に興味ある?」
「ふざけないで」
ちぇー。
…堪えてなんかいないくせに。
「…わたしは、いろんなことがうまくできないタイプなの。こんな見た目だし受け答えのトーンも低いから、飄々とやってるように見えると思うけど、ほんとはすごく必死で、いつもテンパってるの。他の人が業務で習得できる知識や考え方を、わたしは業務外でも必死で勉強してようやく理解できる。だから、仕事に夢中と言うより、仕事しかする時間がないの」
ふぅん、と柔らかな相槌で、彼は続きを促す。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。
「別に、恋愛したくないわけではなくて。ただほんとに、わたしには余裕がないの。あなたはそれでもいいって言うけど、そんな関係、絶対健全じゃない。それに、そうやって甘えられる存在ができちゃったら、わたしは自分で立っていられなくなるかもしれない」
それが怖い。だから、今は仕事だけでいい。
「…自分に厳しすぎるんじゃないの」
優しい声。子供をあやすような響きに、不覚にも頬が熱くなる。
「みんな、そんな真面目に仕事してないよ。恋愛だってそう。手ぇ抜くとこ抜いて、利用できるもの利用して、さも『一人でなんでもこなしてます、すごいでしょ?』ってカオしてるだけ。みんなきっとハリボテだよ。なのにミキさんだけ、みっしり中身が詰まってる。…だから、ちゃんと目ぇ惹いてるんだよ」
「…そんなことない」
「俺だってそうだよ。そういう意味では、ちゃんとチャラいよ」
「ウソ、わたし知ってる。あなたが支店にいた頃、休日にお客さんの現場見に行ったり、家で案件組み立ててきたりしてたこと。…あなたの仕事、全然チャラくない」
余裕綽々だった顔に初めて驚きが浮かぶ。しばらく言葉を失った後、その顔が子供のようにくしゃりと崩れた。腕で顔を隠して、テーブルに突っ伏す。
「…ずりぃー…」
ズルいのはそっちだ。いつもいつも、わたしばかり振り回されてる。ずっと、支店にいたときから。
「そんなこと言われて引けると思う?…俺、これからもどんどん押してくからね」
「それは困るのっ」
はは、と笑った声は、少しだけ泣きそうに聞こえた。
「幹本さん、さっきの資料ですが」
「はいっ」
上司の声に緊張する。昨日指示されたデータ分析を、今日の午前中に提出していた。
提出が遅かっただろうか。上司の顔から、感情は読めない。
「ありがとうございます。よく出来ていました。この属性、思っていたより毀損は少ないんですね」
「あ…はい、そうですね。取引年数や企業規模でも見てみたんですが、あまり傾向に差は出なくて。属性としては良好と言えると…思い…ました…」
コメントの途中から上司の視線が刺さるようで、思わず声が小さくなる。喋りすぎたと、頬が熱くなった。
「…昨日指示したのに、もうそんなにいろいろ見てくれたんですか?」
「は…はい」
「すごいな。これだけでも早いなぁと思ったんですが。思ったより早く傾向が見えたので、追加で検証してもらおうかと思ったところですけと、もしかしてそれも終ってるのかな。今言ってくれた、他の切り口のデータも見せて貰えますか?」
「あ、はい。でもまとまってなくて…」
「とりあえず分析済みの切り口を知りたいだけなので、作業ベースでいいですよ」
「わかりました」
すぐに上司にデータを送る。ありがとう、と微笑んで、上司が確認の姿勢に入った。射るような視線がデータの列を捉えていく。
「…なるほど」
わたしの視線に気づいた上司が、微笑みながらモニターを示してくる。これ、と指差したのは、わたしが昨夜集計したデータの一部だった。
「この切り口はいいですね。私も思いつきませんでした」
「えっ…」
「これ、もう少し細分化するとより傾向が見えるかもしれない。サンプルの大きさにもよりますが、法人戦略部の施策に提供できるデータになるかも」
「ええっ!?」
「申し訳ないですが、もっとよく見てみたいので追加検証お願いできますか。今やってくれてるのは後回しでいいです。こっち優先で」
胸が高鳴る。上司に仕事を認められた。
「ありがとうございます!」
「いえ、こちらこそ。幹本さんがチームに入ってくれてから、とても捗ります」
「そんな、わたしなんか、まだまだ…」
憧れの上司に言われると、社交辞令でも嬉しさが込み上げる。ニヤけそうになるのを堪えて、ぎゅっと目を瞑った。調子に乗っちゃいけない。わたしはまだまだ、この人の手足になるには力が足りない。今回はラッキーパンチだ。
「…前から思っていたんですが」
不穏なワードに、高揚していた気分がさっと冷える。静かにわたしを見つめる上司の顔から、感情は読み取れない。
「幹本さんは良く言いますね、『わたしなんか、まだまだ』って」
「そ、そうでしょうか」
「はい。いえ、実際の頻度はわかりませんが、私は気になります。また言ってるな、と」
「…すみません」
恥ずかしい。上司の目障りになっていたなんて、申し訳ない。
「あ、責めているわけではなくて。もったいないな、と思うんです」
「え?」
思いがけない言葉にぽかんとするわたしに、上司が困ったように微笑ってみせた。
「せっかく頑張ってくれているのに、私が褒めると言うか、感謝すると逆に恐縮させてしまうようで。自分の成果を、ちゃんと自分で評価できているのかな、と。できていないならもったいないし、今後もっと上に行くためには、自分の力量を正確に把握することが重要ですから」
「自分の、力量…」
「誰にとっても時間は有限です。会社にとっても、限られたリソースを最大限に活用して利益を上げる必要がある。だからこそ、目標を絞り、狙いを定めて、可能な限りピンポイントで成果を上げにいくことは極めて重要です。すべてのことを高いレベルで実現できればベストですが、超人でもない限り不可能でしょう。それなら、今の自分に求められること、それに不足していることにフォーカスしてスキルアップするほうがいい。そのためには、今の自分の力量を正確に把握する必要があります」
「…はい」
「慢心は成長を止めてしまいますから、謙虚な姿勢は望ましいと思います。ですが、あまりにも遠くを目指しすぎると、自分の立ち位置が分かりづらくなり、結果として遠回りをしていることもあるかもしれません。最短コースで上を目指すのとは違う景色を見て、違う力がつくでしょうから、一概に悪いとは言えませんが…やはり、少し過酷なものかもしれない。そこで潰れてしまうことが心配です」
言葉もないわたしに、上司はにっこりと大きく笑った。強い瞳。憧れてやまない、未来を見る瞳。
その目がしっかりとわたしを捉えて、わたしのための言葉を発してくれている。
「幹本さんは十分に頑張ってくれています。自分の成果をきちんと認めたうえで、それ以上のものを出していく、と『根拠のある自信』を持って欲しいと思っています。…これからも、今回のような新鮮な発想を期待していますから」
「…ありがとう、ございます…」
上司がモニターに向き直り、それぞれが自分の仕事に戻る。それでも、今のやりとりが何度も頭に浮かんで、目は数字を滑っていく。
わたしは認められているのだろうか。尊敬する上司に。
ザルで水を掬うような焦燥感に苛まれていた心が、少しずつ癒えていくような気がする。なにをどれだけやっても、まだ足りない気がして、いつまでもこの人には届かない気がして、こんなことじゃいけないといつも必死だった。上司の背中が遠すぎて、わたしにはなぜできないのだろうと落ち込んでばかりだった。
今すぐでなくていいのだ。あたりまえのことだけれど。わたしとこの人では経験も能力も違う。わたしはわたしを、わたしの速度で高めていけばいいし、逆にそれしかできない。
…自分に厳しすぎるんじゃない。
不意にランチのときの彼の言葉が蘇る。あの時、彼にあの言葉を貰っていなかったら、わたしは先ほどの上司の言葉を、今のように捉えられただろうか。
頬が熱い。やっぱり、あなたはいつもわたしを。
「…そうだ、幹本さん。あさって、法人戦略部が新規施策の説明に来たいそうです。資料を転送しますので、今の検証が終わったら、論点を整理してみてください」
「はい!」
自分でも驚くほど明るい声が出た。上司に業務の成果を見せるのは少し怖いけれど、なにか指摘があっても、きっとこれまでとは違った捉え方ができる。そんな気がする。
あなたはいつも、わたしを支えてくれている。
わたしにはなにができるか、まだわからないけれど。
いつかその手を、取ることができるだろうか。
↓続きです。
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