フラットな世の中のために…
自分のセクシャリティが多くの人が持ち合わせているものと、ずれていると分かったとき、誰にも言えなかった。
だけれど、それで戸惑いはすれど、深く悩んだことはない。
「本を読むのが好きな人もいれば、本を読むのが嫌いな人もいる」
それくらいの認識だった。
そして、調べれば調べるほど、自分のセクシャリティがぼやけて、滲んだ。
セクシャリティで過去に悩んだ僕からみなさんへ
<目次>
言いたくないなら言わなくていい
セクシャリティはその人の一部でしかない。
言いたくないなら言わなくていい
まだ確定させたくない、わからない、ほかの人にびっくりしてほしいなどなど、いろんな理由でセクシャリティについて言わない人もいるし、言う人もいる。
「L」「G」「B」「T」とか「セクシャルマイノリティ」とか、そういう言葉が出てきたことで、自分の居場所を見つけられた人のいる、一方で、居場所を奪われる人がいる。
「ゲイ=おかま」とか「レズ=ボーイッシュ」とかそういうイメージが形作られ、凝り固まっていくうちにそれに合わないと判断されたり、した人が外に出ていく。
マイノリティの中にマイノリティを作り出すのだ。
完全にイメージ通りの人間なんていないのだから。そんなことみんな頭の中でわかってるんだから。
それをセクシャリティでも適用するだけなのだ。
だから、言いたい人は言えばいいし、言わない人は言わなければいい。
あなたの判断で離れていった人は、そういう価値観でしか生きていけない。その人の価値観を変えるよりも、それ以外のあなたの近くにいてくれる人と時間を使った方がいい。
セクシャリティはその人の一部でしかない。
本が好きな人はがり勉で、黒縁の丸眼鏡をして、運動が苦手。
オタクは、チェックのシャツを着て、タックインして、缶バッジがたくさんついたリュックサックを付けて、めちゃくちゃ早口。
金髪・ピアスの人は、タバコを吸うし、飲み歩くし、周りに迷惑をかける。
露出の多い恰好をする女性は、尻軽。
男性は、外で働くもの。
とかとか…
セクシャリティにおいては、このような決まったイメージが強くなりつつあるのだ。
結果、
セクシャリティ=「その人」
となって、セクシャリティへのイメージと本人のギャップが精神的に当人を苦しめてしまう。
「へー、全然〇〇に見えなーい」は誉め言葉でも何でもない。
浮気の境界線とか、結婚するかしないかとか、会う頻度とか、そういうもののように、セクシャリティもそれだけ”違う”ものなのだ。
そうなるのが良い方向のはずなのに、セクシャルマイノリティの人は本来はいて当たり前なのに、非日常なイベントでは「いるもの」で、日常生活だと「いないもの」になっている。
たとえば、ホモネタを聞いた時とか。「お前ホモかよ」という発言って、「まさか違う(ホモじゃない)よね?」という前提がある。
そもそも、すべてがマジョリティの人生なんてありえないし、もしかしたら自分でも気づかない部分はきっとマイノリティのはずだ。
だからこそ、僕は"自分たちはたまたまセクシャリティがマイノリティだっただけ" だと思うようにしている。
選びようのないことで、あれこれ言われてもどうしようもないし。
だからこそ、小さな変化が必要なのだ。
例で挙げたものであれば、「そういうのやめなよ」と一言述べるだけでいい。聞いたらきっと救われる人がいるし、その人はあなたと居やすくなる。
あらゆる人をフラットで見られる世の中になりますように…