読まれる記事か、書きたい記事か
私はごく普通の名もなき一般人であり、電車に乗ろうが街に出ようが、「あっ○○さんだ!」とは言われない。
故に、このnoteの閲覧数は、「こんな無名の私ですけど読んでくださる方もいるんですね」というくらいささやかなものである。
そんな私でも、いっちょ前に承認欲求はあり、閲覧数が伸びたら良いなと思うことはもう毎日の日課だ。
これまでは、どちらかというと書きたい記事を書いてきた。
時には創作品も投稿しているが、ノンフィクション、つまり私生活の一部や、思想信条の暴露の方がはるかに多い。
今のところ、noteをビジネスや、何か公的なことと結びつけるつもりはない。
私自身はそれでかなりリフレーミングだったり、カタルシスだったり、あるいは思いもよらない心の闇だったり、自分自身の様々なことに気づき、また周囲で起きることにより敏感になっている気がするので、良いこととまではいかなくても、悪いことではない気がする。
ただ、私を知っている人ならともかく、そうでない人達は個人的な吐き出しを読んで面白いとは感じないのではないか。
一度、”読まれやすい記事”を連投してフォロワーを増やし、ある程度のところで個人的なことを書いた方が良いのかもしれないと考えた。
そこで、「note 読まれる記事」で検索をかけると、だいたい思った通りのことが書いてあった。
人が欲しがる情報があること、読んだ人に気づきやポジティブな感情などの”お土産”があること、内部リンクやタグを利用することなどだ。
同時に、読まれることを想定した記事を意図的に書くことに拒否反応を起こしている自分も感じた。
たとえば、自分がポジティブではないときに人をポジティブにするような記事を書くことは、嘘をつくことと同義ではないか、今流行りの物事やnoteの特集に沿って書くことは、自分が書きたいものと違うのではないか、などいろいろ考えてしまう。
そんなときに『徒然草』の一節がふと頭に浮かんだ。
この一文を確認するために検索してみたら、吉田兼好が書いたとされるが、確かな証拠はないとする情報がでてきた。
知らなかった…
まさに「あやしうこそものぐるほしけれ」…。
やはり書きたいものをつらつらと書いていた方が良いのかもしれない。