
「書く」の未来
先日のノートで、紙が貴重だった時代の人たちは、どのように文章書いていったのだろうかと思ったことをチラリと書いた。
NHKのある番組によると、紫式部が源氏物語の執筆に使用した紙は数千枚だそうだ。私はてっきり一発勝負で書いているものだと思ったが、彼女は下書き・推敲・清書と3段階を踏んで書いていたようだった。あの時代にあっても、現代の私たちと同じように段取っていたことに少し安堵した。
最近ちょっとした小説を書いている。音声読み取りだけで最初から最後まで書いてみた。下書きの下書きといったところだろうか、誤字脱字の修正以前に変換ミスがかなりあるので、それを修正していかなくてはならない。
音声の読み取りで文章を「書く」と言ってしまって良いのだろうか。手書きからタイピングに移ったときに、それを「書く」と言うことに、多少の違和感を感じることはあっても、もう普通に使われている表現だ。”メールを書く”と言うことはあっても、”メールを入力する”とは言わない。”LINEでメッセージを書く”と言っても”LINEでメッセージを入力する”というのも言わない。
タイピング文化であるアメリカ人たちは、やはりタイプで文章を「書く」と言うのだろうか。多分
I write a letter.
とは言っても
I type a letter.
とは言わないのではないか。
タイピングはもう私たちの中に「書く」という動作の1つとして受け入れられている。と言うよりも、タイピングは手で書くことの代替手段であり、手を動かすことに違いはないのだから、タイピング=手で書くと言ってしまっても良いのだろう。
しかし、音声入力の場合は、もう「書く」ではない。手を使っていないのでまるっきり違う動作をしているようだ。しゃべったことを別の人が書き取る口述筆記は、筆記=書くであるが、音声入力の場合は筆記ではないから書くとは言わない。
これからの未来に音声入力がどこまで進化するだろうか。言葉を発しないで文字を書きたい場合もあるから、必ずしも音声入力が主流になるとは言えないかもしれない。
しかし、音声入力はさらに改良されるだろうし、もっと遠い未来には頭で考えたことがそのまま文章化される可能性も全くなくはない。ただそうなると邪念が多い私などは、あっという間に脈絡のないことで埋まってしまうだろう。
それともAIが、その人が今描きたいと思っていることを勝手に書いてくれるだろうか。
書くの未来は面白い。
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