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晴れた眼の世界は当たり前ではない

音訳をする機会をいただいた。
ここでいう音訳とは、目の見えない・見えにくい、視覚障害の人たちへ主に印刷物を読んで差し上げることを言う。テキストデータやワードなどのデータは読み上げアプリが機能するが、PDFでは機能しないこともある。今回は指定のPDFを音訳してほしいというご依頼をいただいた。

公的なものであれば、講習を受けた音訳ボランティアが音訳をするのだが、指定されたものは私的使用のため、講習を受けていない素人の私でも十分対応可能である。
朗読ではないので、感情を込めず、淡々と丁寧に読んでいく。読む速度も一定に、抑揚をできるだけ少なくして、記事のあるがままを読んでいく。作業的には音声の収録が30分以内、編集が40~50分といったところだろうか。
講習を受けた方ならきっと編集なしのワンテイクでいけるのかもしれない。

私は障害者だが、視覚障害者の前では健常者だ。視覚障害者に対応する反対語は「晴眼者」である。私はこの「晴眼者」という言葉に違和感を持っている。視覚障害の人たちは普通に使っている言葉だが、”眼が晴れている”なんておこがましい。見えている者のエゴ丸出しのように思える。視覚障害者と関わったことのない人は「晴眼者」という言葉すら知らないのではないだろうか。
つまり、見える者は「見える」ということを意識せず、見えることを前提とした社会を当たり前のものとして思っていることに、見える者のおごりがあると、身体障害者であり晴眼者の私は思うのだ。

晴眼者は視覚障害者のために何かをしてあげましょうよ、という話ではない。
自分の住む世界は当たり前のようにできていても、それは誰かにとって当たり前ではないということなのだ。
先のPDFにしたって、もう一般的に広く使われていて、そしてまた便利なことは誰もが知っている。ただ、その便利さを享受できないクラスタもまた存在する。そういうものはあらゆる場所に存在し、便利だと思っていたものがかえって不公平を招いているかもしれないと常に疑ってかかる必要があるのだ。

出来上がった音訳を編集のために聞き直してみると、自分の発音のひどさに少しがっかりしてしまった。
それでも見えることが前提の社会を作ってきた一人として、多少の罪滅ぼしができただろうか。

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