人はなぜラグジュアリーを求めるのか
知人への誕生日プレゼントを買いに伊勢丹へ行き、目的のモノを買った後、リビングフロアを何の気なしにウロウロしていた。
私はテーブルウェアがわりと好きである。
ただ、食器類は母の管理下にあることと、普通の人が軽いと思えるような食器、たとえば陶器などは私が持ちあげることができないので、欲しいなと思ってもそういう意味で買えないことが多い。
ただただ見ているだけだったが、それでもあれこれ想像していて、なんとなく幸福な気持ちになった。
人がラグジュアリー商品を買い求める理由は2通りあると思う。
ひとつは、もともと裕福で生活の中におけるラグジュアリーが初期値であること。
もうひとつは、ラグジュアリー商品を買うことで気分を上げようとすることである。
私は完全に後者である。
就労に様々な制約がある私は平均値以上には稼げない。
それでもラグジュアリー商品を買う私を、特にヘルパーさんたちは”裕福な人”、”裕福な家庭”と思っている様子が節々からみてとれる。
けしてそんなことはない。
母は「高い時計も安い時計も時間はみな同じ」と言って高級時計の価値を知ろうともしないし、「まだ着られるんだからこれで十分」と言って、いつ買ったかもわからないような私のお古を着ているというような人である。
ただ、アレルギーやサイズの問題で、仕方なく少し値が張るものを購入することはある。
きれいに並べられたテーブルウェアを見て私は思った。
このお皿で食べたらさぞ美味しく感じるに違いない…
このコーヒーカップで入れたコーヒーなら、たとえそれがインスタントであっても一流のバリスタが入れたコーヒーに匹敵するに違いない…
このお箸なら、極上のマグロ刺身に思えるかもしれない…
母に言わせたら、どの皿でもどのコーヒーカップでもどの箸でも、「中身は同じ」である。
理屈の上で母は正しい。
しかし私は思う。
ちょっとだけ値の張る、けれど素敵なモノは気分を上げ、味覚を変えるのだと。
きっと食べるものだけではない。
ラグジュアリーな服を着る時、障害で曲がった私の背骨はしゃんと真っ直ぐに伸びるような気がするし、プチプラでない貴金属を使ったジュエリーはその輝きにふさわしい自分でいようという気持ちにさせてくれる。黒く重いセラミックのJ12ファントムは、プライドを維持してくれる。
ただ値が張るというだけでは意味がない。高いけど仕方なく買った商品は気分が上がらない。
まず、その商品が並べられているところを見て、素敵!と思えるところからはじまり、使ってみて、気持ちに変化を起こさせるモノであることが重要だ。
先述の理由から、食器類を買うことは少し難しいかもしれないが、今使っている箸の取り換え時期がきたら、思い切ってラグジュアリーな箸を買ってみようかなと思っている。
高い箸で食べるコンビニ弁当、美味しく感じるかなぁ…
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