落書きの「言語学」
heldioとは?
・慶應義塾大学文学部の堀田隆一先生が「英語史をお茶の間に」をモットーにVoicyで毎朝6時に配信されているラジオ
helwa(英語史の輪)とは?
・heldioに上乗せして配信されているプレミアムリスナー限定配信チャンネル
・helwaリスナーのことをヘルメイトと呼ぶ
・ヘルメイト間では常に活発なコミュニケーションが行われており、言葉に関心を寄せるものにとっては至福のコミュニティといえる
落書きを分析してみよう
少し強引な気もするが、#1147. 日常の英語史・英語学 --- khelf 疋田くんの新シリーズにあやかって、身近なモノを言語学(とは言えないかもしれない)の視点から眺めることをやってみたい。私が関心を寄せているのは「落書き」である。きっかけはheldioの#1110.であった。その回のコメント欄に書き込んだ内容は以下のとおり。
冒頭に「全然関係ないのですが」とあるのは、#1110.はタイトルからわかるとおり、B&Cシリーズの1回として古英語文学についての節を精読した回であるからだ。恐らく、文学から書くこと全般に考えを巡らせる中で思いついたのだろう。
コメントを投稿してから数日後、何ともありがたいことに#1114. graffiti 「落書き」にて落書きの話題を取り上げていただいた(heldioのタイトルを見る瞬間は日々の楽しみの1つであるが、この日はとても嬉しかったことを覚えている)。#1114.では、そもそも落書きをどのように定義するのかが問題になるだろうと述べられており、これはやり甲斐がありそうだと思った。放送後しばらく放置していたのだが、ここで一念発起。手始めに古賀(2017)と三上(2014)から得た着想をもとに、落書きについて考えるうえでキーワードになりそうなことをいくつか挙げてみたい。簡単なアイディア出しの状態ながら公開しているのは、読者の方からの突っ込みを期待してのことである。お気付きの点等があれば、お寄せいただければ幸いだ。
①場所性
落書きはある特定の空間に書かれる。
【公共の場】街中の壁やガードレール、電車、寺院や神社、道路標識や観光地の看板、紙幣、学校の黒板など
【私的空間】ノートやプリント(の余白)、学校で自分が使っている机、自分の手や腕など
この2つは完全に対立する概念ではなく、学校の机など、どちらの性質を兼ね備えたものもあるため、グラデーションで捉えた方が良いのかもしれない。また例えば同じ寺院であっても、人目に付きやすい外壁や建物の中の目立ちにくい柱、さらには構造内部にあって解体作業をしない限りは見つからない場所など多様である。
②内容
何を落書きするのかは大変重要な問題であり、多岐にわたるだろうが、ここでは2つに絞る。
【存在証明】古賀(2017: 12)は落書きをする人間の心理として、「ある時・その場に・存在した」ことの表明願望を指摘している。例として挙げられているのは、マーカーや缶スプレーを用いたグラフィティだ。グラフィティには何が書かれているのか全く知らなかったが、タグと呼ばれる書き手のサインがもっとも多いそうだ。
有名な観光地で日本人と思われる名前などの落書きが発見されたというニュースを聞くことがたまにあるが、これも同様の動機付けがあると言えるだろう。
【心情の表れ】落書きの定番の1つとして、授業中にノートの隅っこにその時の感情を書きつけるということがあるのではないか。例えば「眠いよ〜」「◯◯(受けている科目名)マジつまんない」「お腹すいたー」など。とすると、落書きは書かれてはいるが話し言葉の性質が強く、標準語ではなく普段の生活で使われる方言が反映されているかもしれない。だがそもそもなぜ、このような気持ちを書き表そうとするのだろうか。
①と関連して、場所性により書かれる内容に差異があることが予想されるが、公共の場と私的空間の両方に見られる落書きもあるだろうか。
③定型表現
三上(2014: 56-67)は「落書きにみられる定型表現」を取り上げているが、江戸時代初期の仏堂に見られる落書きのパターンとして、「住所+人名+かたみかたみ(+年月日)」があるという。「かたみかたみ」という表現は16世紀後半以降に登場したものであり、下限は17世紀半ば頃までとのことである。
このような定型表現が成立するのは、まずは当該の落書きが人目に付くところに書かれており、見た人に「ふさわしいもの・お手本」という認識を与え、真似て書くという「継承」がなされたからであろう。
それでは、私的空間に書かれる落書きは定型性とは無縁なのだろうか。ひとまずは、そうは思わないと述べることに留めておく。
④変異形、変化
落書きにも定型表現があるとすると、一部にバリエーションが見られるのか、また継承される中で変化が見られるだろうかということにも関心が向く。ここでは「相合傘」について考えてみたい。誰しも小中学生の頃に一度や二度は相合傘を書いたことがあるのではないかと思うが、どんな形式であったか覚えているだろうか。
東京大学史料編纂所がインターネット上で公開している記事
「デジタル技術で明らかになる日本の風景画」には、約150年前の相合傘の落書きを写し出した写真が載っている。充分に鮮明ではないながらよく見てみると、傘の骨組みのような部分も書かれており、写実性が高いと感じられる。果たして現在、このような傘らしい相合傘を書くことは一般的だろうか。傘は簡易的に表現され、オプションとしてハートマークが付けられることも多いのではないか。いくつか思いついたパターンを書いてみた。
このような差はどのように生まれ、広まっていくのか考えてみたい。
⑤書体
手書きの文字は一人ひとり異なるが、落書きをする時はいつもと同じような文字を書くだろうか。それとも、他のインフォーマルな書き言葉でも同様の現象が見られるかもしれないが、普段とは書体を変えて、例えば丸文字で書くといったことをする人がいるだろうか。もしそうなら、その人の中では落書きというジャンルと特定の書体が結び付けられていることになるが、娯楽や聞きたくない授業からの現実逃避といった理由からだろうか。それとも、落書きの「慣習」に従っているのだろうか。
ざっと現時点で考えたことをまとめてみたが、論点は他にもたくさんあるだろう。
長々ととりとめのない話に付き合わせてしまった読者の皆さんには大変恐縮だが、私はこのようなことを考えるのが大好きなのだ。ヘルメイトにはこんな人もいるんだ=誰でも歓迎ということが伝わったのであれば本望だ。
参考文献
古賀弘幸. 2017. 『文字と書の消息』工作舎.
三上喜孝. 2014. 『落書きに歴史をよむ』吉川弘文館.