見出し画像

母親が求めてやまないもの

お母さんの誕生日プレゼントは何をあげるのが現代のセオリーなんだろう。
「冷蔵庫」というセンスのないお父さんは今もいるんだろうか…

お母さんは、たいていの場合24時間365日お母さんである。
そんな人たちが求めてやまないものといえば、ひとりの時間じゃないかと思うけれど、それは万年母性不足のわたしだけなのだろうか。
わたしは、24時間戦えない。

ひとりの時間。

わたしが離婚後に得たものといえば、これ一択といっても過言じゃない。
その伏線が張られたのは、今思えば離婚の3年くらい前じゃないかと思う。

次女が3歳を超えたとき、わたしは思った。
もう、ここまでくればだいじょうぶだ。
そして、母親という心の荷物をわたしは半分おろした。

早いよまだ。
そう思うひとはどれくらいの割合だろう。

わたしはもう死んでもだいじょうぶだ。
そのときわたしが考えていたのは、こういうことだ。
うちの娘たちは人間というものを信じていて、自分たちが愛されるに足ることを知っている。そして、困ったら誰かに助けてと言える。
もう十分だ。
わたしがもし今死んだとしても、この子たちはちゃんと楽しく生きていける。
心からそう安心した。

そのときくらいからだ。
急に、ひとりの時間が欲しくなった。
個人としてのわたしの時間が再び動き出したのかもしれない。
仕事が変わり、人間関係が変わり、環境が変わった。

わたしはひとりで何でもできる。
初めて高尾山に登ったときもひとりだった。
いろいろなところにひとりでいると、カップルやら家族連れやらに出会って、わたしはどんな風に見えるだろうと考える。

そう思うのは、あちら側にいたわたしは勝手にも「さみしくないのかな」とか上から目線で考えていたからなのだろうか。
だとしたら、かつてのわたしに「まったくさみしくない」と心から言う。
と言うか、そっちよりこっちの方がさみしくない。

家族でいたときの方がさみしかった。
今は、娘たちといてもわたしひとりでいても全然さみしくない。
離婚する前の方がさみしかった。

…というのが嘘のような本音である。
これは希望なのか、絶望なのか。
読んでいただいた方に判断はお任せしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?