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何もない、それが一番わたしらしい

以前、空っぽな自分に呆然としたことを書いた。

でも、最近思うのだ。
何もない空っぽな器が自分なんじゃないかと。
自分らしさを全部削ぎ落とした透明な器。

わたしの中にある膨大な余白。
それこそが、わたしの能力を存分に発揮する。
最近、それについて実感している。

わたしは、人間として薄っすらしていたかもしれない。
仕事をするスイッチを入れなければ、人間としてはガラクタ同然。
元来が、ひどくぼーっとした人間なのだ。
だから、人間として「ちゃんと」生きるためにすごくがんばってきた。
地球は重いから、苦手なのだ。

先日、アートセラピーのワークショップのことを書いた。
わたしは、お別れのときある参加者の方に「さよなら宇宙人」と言われた笑
詳細は書けないのだけれど、布が海に流された事件はけっこう色々なことを呼び起こしたからかなと思う。

こういうことが起こるとき、前兆がある。

まず呼ばれるところから始まる。
こういうのが起こる前はだいたい眠い。
ベッドにゴロゴロしながらスマホを眺めていると、ワークショップやイベントに目が止まり、気がつくとポチりと指が動いている瞬間があるのだ。
けっこうな出費だったりするのに、こういうときはなぜか迷わない。

そして、参加すると、だいたいそこは不思議な親近感に満ちている。
けっこうな人見知りなはずのわたしなのに、初めて会ったはずのひとたちにほとんど気負いを感じない。
リラックスした安全な空間で何かが起こるのだ。

「只者じゃない」と言われることがけっこうある。
よく勘違いされるけれど、わたしが起こしているのではない。
わたしは誰かに使われているだけなのだ。

誰かが、わたしの口を使って目の前のそのひとに何かを伝える。
伝えたい何かがわたしを通るだけ。
目の前のそのひとに伝えたいのに、「誰か」たちはいつも伝わらなくて困っているのだ。
「困ったなー」が極まったそこにちょうどよくわたしが現れる、というかそのために呼ばれる。

かくして、わたしは乗っ取られる笑

そういう場で、わたしが何か言うと、絶対に誰かが泣く。
あるいは怒り出す。
だから、わたしはそういうのがすごく苦手だった。

けれど、わたしはもう抵抗しない。

わたしがわたしらしさを持たないということが能力であるらしいからだ。
起こったことの善し悪しを決めるのはわたしではない。

以前、「弱いことは能力だ」とも書いた。

「持っていない」ことが武器だというのがわたしのセオリーらしい。
いやなことをいやだと素直に言う、元々の自分に戻っていくうちに削ぎ落とされていく。

いつも、「自分らしさ」を考えると焦る。
いいものを何も持っていない、他のひとより劣っている、だからプラスしなくちゃいけないとか頑張らなくちゃいけないような気持ちになる。
でも、多分違うのだ。

誰でも、今もうあるのだ。

人間として薄っすらとしているのは「持っていない」からで、だから地球に馴染めない。
よく行動力があるね、と言われるのだけれど、それは燃えるような情熱によるものではなくて、インスピレーションで軽く動いてしまうだけだ。
他人との境界線が薄くて、欲とか執着とかをずっと持っておけなくて、ダメだとすぐにまあ死んじゃえばいいやとか思うけど、痛いのが嫌だから死ねない。

でも、そんな自分にしかできないこともあるらしい。
と気づいた。


こんなひと、他にもどこかにいるんだろうか。
と思ったので、書いてみた。
自分にしかできないことの一環として。

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