しあわせとふしあわせの狭間
▼前回
ふと、目の前のひとの優しさに涙ぐんでしまうときがある。
それはもう会えないかもしれない誰かを思い起こすからかもしれない。
この歌詞を聴くたびに、かつてわたしが死ぬんじゃないかとたぶん心配してくれていたあるひとを思い出す。
かけてくれた言葉がそのひとの声で何度も何度もリフレインする。
目の前が涙で滲む。
こうやって、わたしは日々目の前の今にかつての何かを投影している。
これは未練とか執着と呼ばれるものだろうか。
どうしようもないことがある。
自分のことは自分で決めて行動できるけれど、それ以外のこと。
一緒にいたい。
いつまでもここにとどまっていたい。
これを手放したくない。
そうどんなに願っても叶わないことはある。
だから、自分の感情と折り合いをつけて、どうにか進む。
その度に、愛おしい何かを手放してきた。
どんなに愛していても、全部を持ってはいられない。
そうして、何かを得る度に何かを喪う。
その悲しみに明け暮れて「今」にとどまることはできない、新しい「今」に集中しなくては。
そんな風に2年間を過ごして走ってきた。
かつて欲しかったものは今手の中にある。
仕事は順調で、穏やかな同僚に囲まれて充実している。
ひとりの時間が増え、美容院や病院にも定期的に通うことができる。
言えないことが減り、今は大抵のことをオープンに話せる。
わたしはもう誰かにビクビクして何かを我慢したりしないし、頭の中の自分じゃない誰かに支配されることもない。
けれど、先日ある方に言われたことが喉に引っかかる。
「あなたは諦めている」
そう、わたしは諦めた。
目の前にある何かはかつて欲しかったものと少しだけ違う。
気の置けないひととの会話も、思ったことをそのまま口に出せる安心感も、あのときあのひとと味わって知ったしあわせだった。
今目の前にあるそれは、あのひととそのまま続いて欲しいと願ったもの。
目の前の仲間も大好きでかけがえなく、ただただありがたい。
痛いほどにわかっている。
けれど、違う。
そう思ってしまう自分をうまく扱えない。
手に入れたものの価値を実感するほどに、なくしたものに意識がいく。
昨晩もエネルギーはやってきた。
なんとなく、愛を感じる。
それはなんとなくとしか言いようがないような繊細な感覚だ。
あたたかさが胸いっぱいに溢れて痛い。
いつの間にか涙で顔がびしょびしょで戸惑う。
つい、やめてと思う。
これに身を委ねてしまったら、もう立ち上がれないんじゃないかという恐怖に襲われる。
それに、なんかせつなくて疼く。
じっとしていられずに、ベッドの中で足をバタバタする。
布団に顔を埋めて叫ぶ。
このひとは今わたしの目の前にいないひとだ。
しょうがない。
たまらずにそうやって頭を冷やすと、身体から自分がぬけていく気がする。
わたしは何かをどこかに置いてきたのだろうか。
だとしたら、何を、どこに。
だって、諦めるしかないじゃない。
人生とかそんな大それたものとかを諦めているわけじゃない。
一旦横に置いておかないと進めないし、なんなら痛くて立つことすらままならないのだから。
涙が止まらないまま朝を迎えられないではないか。
毎日泣き明かしたあの日に比べれば、今はなんと平穏でしあわせだろう。
何も苦しくないし、いやなひともいない。
そう思うのに、ふと気づくとこんな風に闇落ちている。
目の前のPC画面に集中させてくれ、そう切に願う昼下がり。
この前のワークショップで気づいたことがある。
うちの次女はすごくわかりにくい。
いつも仏頂面で遊んでいるのだけれど、彼女は楽しければ楽しいほど真顔になってしまい、周囲に誤解されやすい。(わかるとおもしろい笑)
わたしは逆なのかもしれない。
つい笑ってしまう。
目の前の現実を味わいきれていない。
ワークショップで、何もかも美味しそうに食べる方がいた。
これをつけると美味しい、このドレッシング最高、という言葉のシャワーにわたしの食欲が反応する。
味覚が蘇ってくる気がした。
わたしはいまここにいるのか。
あのとき望んだ景色ではないかもしれない、けれど今もやはり愛おしい。
そんなことを考えていると、どんどんひとりになっていくような気がする。
泣けばいいのか、笑えばいいのか。
しあわせなのか、ふしあわせなのか。
何を望めばいいのか。あるいは何を手放せばよかったのか。
なにか間違った?自信がない。
よくわからなくなってきてしまうのだ。
しあわせすぎて。喪ったものが大きすぎて。
マッサージを受けるのは苦手、と前回書いた。
何を感じているのか、わからないのだ。
マッサージをしているときは感覚が澄んでいくのに、受けているときは自分が外に出て行ってしまう。
今にいられない。
なんでだろう。
続きます。
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