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ないのではなく、怖いから受け取れないだけ 〜 お金とパートナーシップの関係⑤

▼前回

前回は、自己価値や自尊心について書いた。

今回は、そこから「受け取れない」について書いてみる。

わたしは「受け取れない」にはレベルがあると思っていて、それは本当に欲しいものほど受け取るのが怖いという矛盾を孕んでいる。

本当に欲しいもの、というのは自分では案外わからないものだけれど、「欲」というものを考えてみるとはっきりする。

洋服が欲しい
彼氏が欲しい
お金が欲しい
自由が欲しい
時間が欲しい
見たい
行きたい
食べたい
寝たい
遊びたい
やりたい
抱きたい
抱かれたい
奪いたい
堕ちたい
叫びたい
逃げたい
傷つけたい
やめたい
死にたい

すんなりと言えない言葉はあるか。
どの言葉を「下品」「堕落」と感じるか。
誰にも言えない、あるいは言ったら誰かに「申し訳ない」という気持ちになる言葉はないか。
それを素直に口にだす人が嫌いだったり、やっている人を羨ましく感じることはないか。

もし、心当たりがあったなら、それが本当に欲しいものだ。
自分が自分に固く禁じていること。
ブロック。
やったら、罪悪感を感じてしまうもの。
どこかに甘ったるさやだらしなさが見え隠れするような。

それを手に入れることは、多分本当に怖くて、ひとは手に入りそうになったら逃げ出してしまうのだ。

わたしの場合、それは「愛されること」だったように思う。
「わたしは、何も持ってない。あなたが欲しいものはわたしの中には何一つない。だから、あなたにしてあげられることはない。」と言ったことがある。
その相手から、「何もしなくていい。そんなこと考える必要がない。なんでもあげるから。」と返されたときほど、怖い瞬間はなかった。

受け取れないひとというのは、全く何もかも受け取れないわけではない。
渡す(出す)と受け取る(入る)のバランスを考えた時に、渡す(出す)という内から外へ向かうエネルギーの量が多いのだ。
だから、いつも枯渇してしまう。
枯渇しているのに、受け取ることに罪悪感を感じ、飢えている自分をさらにあさましく感じる。

そういえば、わたしは欲しいものを欲しいということをあさましいことだと思っていた。だから、欲しいものほど欲しいと言えなかった。

自己肯定感が低いひとが「受け取れない」のは、受け取った分だけ返さなくてはと考えるからだ。
欲しいもの=自分にとって価値が高いものは、多大なコストを払わなくてはいけないような気になるので、怖くて受け取れないのだ。
どれだけ支払えば(喪えば)採算が合うのか、とどこかで考えている。
ひとはそれを、体や犠牲を差し出して支払おうとする。

もうひとつの怖れは、手に入ったものはいつか喪ってしまうという想像だ。
自己肯定感が低いと、自分の力で手に入れたという実感は持てない。
目の前にある価値の高い何かと自分は釣り合っていない。
「たまたま」手に入れたのだから、と期待しないようにする。
そして「想定通り」喪えば「やっぱり」とホッとする。

こうして「喪う」ことは、目の前のもの以上に失うものが大きい。

自己肯定感の低いひとには思いもよらないことだ。
「持っている」ひとは、誰かに何かをしてあげたときに何かを返してもらおうと思っていない。ただ喜んで欲しいだけだ。
受け取ってもらうことが、そのひとの喜びなのだ。
情けはひとのためならず、の意味を知っている。

受け取ってもらえないと、「持っている」ひとはそのひとの前からいなくなる。
そうして、Give&Give&Give&Give&Give……&Takeの関係だけが残っていく。

わたしの周りはいやなひとばかりだ、というのは間違いだ。
かつてはいいひともいたし、今もいるのだ。
いやなひとばかりが残った、あるいは見えていない。
いやなひとといるのが落ち着く自分なのだから、当然の結果だ。

「尽くすと愛されない」原理も当然で、尽くすひとは愛されることを拒否しているから、愛したいひとからは嫌われてしまう。

愛されたら、ただ素直に受け取る。
それだけのことが、わたしにはすごく難しかった。

対価として、何かをしないと落ち着かない。
次回はその対価の話にしようかと思う。

▼続き


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