「恐れ」はしあわせの裏側に
前回、レスに悩む女性に潜んでいた意外な本音について書いた。
このエピソードでもわかるのだけれど、自分の本音を自分でわからなくしてしまうのは「恐れ」だ。
前回の女性の場合、離婚しなくてはならなくなるかもしれないという「恐れ」が本音を覆い隠しているということになる。
「恐れ」
それは、失うことを想像していることを意味する。
ひとことで書いてしまうと、それだけのことがなぜこんなふうに本音を捻じ曲げてしまうのか、頭では理解できないように思える。
だから、以前わたしが抱えていた恐れについて、書いてみようと思う。
今でもそれを思い出すたびに涙がじわりと溢れてくる。
それを初めて感じたのは、数年前のことだった。
当時は恐れだという自覚すらなかった。
不幸な思い込み、最初に自覚したのはそういううっすらしたもので、違和感を感じたことを覚えている。
当時、わたしは片思いをしていた。
普通なら、「仲良くなりたい」とか「近づきたい」とか思うだろう。
そういう気持ちがないわけではない。
けれど、わたしにはなぜか「いつかこのひととは離れてしまうのだ」という思い込みがあった。
根拠がない、そう頭で打ち消すのだけれど、そのうっすらした何かは抵抗できないほどに強くそこにあり、もやもやしたまま正体はわからない。
彼に強烈に惹かれながら、離れても生きていけるようにとなぜか心の準備を怠らない自分がよくわからなかった。
近づきたい、そう思う気持ちより早く遠ざかりたい本能が常に勝っていた。
失うなら、最初からいらない。
未来が確定しているわけではないのに、どこかでそう決めていた。
好きになればなるほど、絶望して、体の端が死んでいくような。
最近、それを認識し、やっと言語化できるようになった。
しあわせは、同時に闇を連れてくる。
大切な誰かができれば、失う未来がセットで思い浮かぶ。
なぜか私の頭の中は、そうなっている。
最悪の未来を想像して身構えていないと、そんなことが起きたとき、うっかりショックで死んでしまうからかもしれない。
その闇は、宇宙のように果てしない。
どこまでも黒く塗りつぶされた完璧な闇にわたしはひとり取り残される。
足を動かしても、手を動かしても動いているかどうか定かではない。
目を瞑ろうが開けようが、目の前は完全に黒い。
そもそも、わたしには足や手や目があるのかもわからなくなってくる。
何の音もにおいもしない。
当然、空気が動いたりもしない。
生きているか死んでいるかもわからないまま、永遠が続く。
そのうち、自分がなんだったのかすらも存在していたのかもわからなくなって、いつまでも続く闇に気が狂いそうになる。
死より孤独の方が恐ろしいように思える。
誰かを好きになると、この闇がわたしを追いかけてくる。
いつの間にか、闇の妄想に囚われている。
本当に怖くて、体が震え出し、涙が知らぬ間に溢れてくる。
最近また惹かれる人に出会って、その時のことを思い出した。
闇のイメージが同じかどうかはわからないけれど、こういう「恐れ」というものを誰しも抱えているのではないかと思う。
この「恐れ」は引き寄せの邪魔をする。
実は、極上のしあわせや、自分の本当の望みはものすごく怖いものだ。
矛盾しているようだけれど事実で、だから思い通り引き寄せるのが難しい。
本当の望みを制約なしに思い描くこと、それを恐れが邪魔する。
自覚しにくい「恐れ」に紐づくのは幼少期以前の古い記憶で、言語化どころか認知すらしづらい領域にあるらしい。
「恐れ」を強く抱くひとは、幼少期以前に生命に関わるような根源的な何かを失った経験を持つひとかもしれない。
引き寄せるには、この自覚しづらい「恐れ」をなんとか自覚して、認め、切り離し、本当の望みをきれいに描く必要がある。
ということでまた次回