探究 第3章(算術の基礎 編(8))
こういうルールのスポーツを考えてみよう。
手も足もどこでも使ってよい。蹴っても投げても良い。相手を攻撃しても避けても良い。器具を使っても使わなくても良い。ボールをゴールに入れても入れなくても良い。何人でも良い。最終的に1点入れた者が勝ちだ。
すると人はこう問いたくなる。「これはスポーツと呼べるのか」。しかしこれは我々が追求すべき問いでは*ない*
この競技は、いったい*どのように*プレイすれば良いのか、というのが我々の問いだ。
すると君は言うだろう。こんなルールも何もあったものではない競技などプレイ不可能だ、と。
そこで私はこう言いたい。では、どのようにルールを変更すれば、プレイ可能になるだろうか。さらに言えば、どのようにルールを変更すれば、この競技はもっと面白くなるだろうか。
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ここで以下の算術を考えてみよう。
x + y式の解:
・x, y どちらかが57より小さいときはx + y
・それ以外の時は5
「この算術をクワス算と呼ぼう。きみは、68 + 57 = 128 と言うが、我々は昔からクワス算を行っていたのであり、だから正解は5なのではないか?」
いったんクワス算を認めてしまえば、他のあらゆる概念も同等に揺るがされるのであって、言語の歯車は空転を始めるだろう。
それゆえクワス算の議論は疑似問題だ。これに答えはないし、答えてはいけない。
しかしここで「言語的な懐疑は保留しておいて、すべての言葉は正常だとしよう。とりあえず、クワス算術の懐疑だけを認めて、先に進めようではないか」というかもしれない。
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いまここに楔が撃ち込まれた!
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この「楔」によってクワス算に関する議論が、「なんでもあり」のナンセンス競技から、ルールに基づくスポーツへとアスペクト転換したと言えよう。
転換を経たあと、この問いには「答える」という行為が意味を成し、許されはじめる。どう答えるのかは自由だ。ある人は懐疑的解決を見出すかもしれない。別の人は前提そのものに異議を唱えるかもしれない。
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そしてここから先の議論に、我々が問題にすべき内容は*ない*
いま私たちは無意味が有意味へ転換する場面を見た。
これより先、クワス算のすべての議論は、一種の詩的な言語創作活動とみなせるだろう。
私たちはこのようにして新しい言語スポーツを生み出し続ける。
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