探求 第2章(錯視絵編(3))
与えられた絵に対して、錯視絵かそうでないかを判定する方法はあるだろうか。
1. 多くの人に何が見えるか報告させ、回答が二分されていれば、錯視絵と考えても良いだろう
...「普通」の絵にも見方は様々あるだろう
2. 絵の作者に聞いてみる。作者が「錯視絵のつもりで描いた」といえば、さしあたり、そう考えても良いだろう
...作者不明の錯視絵は数多くあるだろう
3. 錯視絵と呼ばれる相当数の絵を機械学習させ、最後に問題の絵を判定させれば、高い確率で、それが錯視絵かどうか判定できるだろう
...問題は学習させるその絵が錯視絵なのかどうかがわからない
しかし、たった一つの基準で、すべてを決める必要はない。
これら3つの基準がどれもある程度妥当で、そのどれかを人は好みで使い分けていると考えても何ら不都合がない。
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人類のまだ誰もアスペクト転換を経験していない錯視絵というのは、ありえるだろうか。
人類に遭遇したことがない他の星の生命体は、男女の錯視絵を、錯視絵と判定するだろうか。
対象が目の前に与えられていない状態で、「記憶のみのアスペクト転換」は起こりうるだろうか。
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これらを思わず「潜在的な錯視絵」と言いたくなる、言語の強烈な誘惑を感じる。(気をつけろとわたしの直感が全力で告げている)
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アスペクト転換が起こる場面:
1. 絵が提示されている
2. その絵をあるアスペクトの元に見ている者たちがいる
3. 別のアスペクトを示唆する、第三者的人物がいる
4. 転換が起こる(転換が起きたと報告する者がいる)
「すべての錯視絵に共通のなんらかの特徴」を探す必要はない。それが存在しなくてはならない論理的な必然性がない。
錯視絵の「本質」は、絵の側にはないかもしれない。
そして、3でいわれる第三者的人物の存在を忘れてはならない。絵と、それを見ている者の二項関係では、錯視絵の図式は理解できない。
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すべての絵は「潜在的に」錯視絵であり、上の図式を満たしならば、どんな絵画でも(程度の差はあれ)アスペクト転換は起こりうる。こんな言い方に意味はあるだろうか。
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