探求 第2章(心の中のことば編(5))
内語も発話も行わず「深く考える」ことは可能だろうか。
人とあれこれ議論する。主張し、その根拠を述べ立てる。この類比で、言葉にださず、自分自身と内語で議論する。
思考をこういう行為として捉えている人にとって、「内語も発話も使わず思考などできない」というだろう。
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「無意識」といった「言語化の前工程」のような説明方式を導入して、「無意識*が*思考している」とでもいいたくなる説明を行うこともできよう。
そうなれば、内語も発話も行わず、ただ無念無想の状態で人は深く考えられるのだ、という人が出てきてもおかしくない。
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内語は思考そのものである、と言ってしまったとき、言語の形式性に導かれて、
「それでは内語のない思考は不可能なのか」
「思考なしで内語を発することはできるか」
という問いを立ててしまう。われわれの言語はそのような文章の組み立て方を許容している。
これこそ、言葉の限りない表現力の源であり、また警戒すべきたちの悪い誘惑の源泉だ。
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「意識はどのようにして内語を内語として認識するのか」
ひとはこれを「問い」と勘違いし、答えようとしてしまう。その答えの標準形式は、多くの人にとって脳科学的な回答方法でありえる。
曰く、「人が内語を行う際、脳をMRIで観測してみると、XXXX領域が強く活性化しており。。。」云々。
しかし、われわれが普段、何かを「認識する」という語で表現するような仕方では、われわれは内語を認識していない。認識に伴う錯誤や検証といった諸活動がここでは決定的に欠けている。
また、「内語として」の「として」は、これまで見てきたアスペクト、つまりものごとのひとつの見えかたのことだ。しかし内語が内語以外のものごととして把握されるなどということが、ありえるだろうか。
内語は、これらいずれの語にも「似ているようで全く似ていない」しかたで、現象している。
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だからこれは「問い」ではない。
日本語の形をした、ひとつの意味不明な文だ。答えてはいけない。答えようとしてもいけない。それは人に困惑しかもたらさない。
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内語という概念は、それが何であるかを正面切って答えることが難しい。
ある種の問いを「回避する」という方法が最も有効な戦略であり、「内語」という現象を理解するための、最初の必要な補助線であるように思える。
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