探求 第2章(心の中のことば編(4))
人は文章を書いたとき、「自分の考えをうまく表現できていない」と感じることがある。あるいは「書いているそばからずれてくる」といった違和感を抱く。
ものごとの「一致・不一致」は、思い違いや錯誤、幻覚といったことがありうるのだから、自分のみで決めて良い事柄ではない。
しかし自分の思考と言語表現との「一致・不一致」の判断は、ただ自分一人で行う以外にない。
この「行う以外にない」は、「一人だけで決めていいと社会から許可されている」という意味でなく、「自分以外の基準で決めることが、元から排除されている」という意味だ。
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この図式を内語に当てはめてみよう
思考を心の中で自問自答したとき、「思考と内語がうまく対応してない」などと言うだろうか。それはむしろ「考えがまとまらない」と表現するべき事柄だろう。
内語で言い表したことが、言いたいことでないならば、言いたいことは一体何によって表現されるのか。
このようにいうと、内語以外にまた別の心的思考があり、それとの一致・不一致がいま問われているのだと考えてしまいたくなる。
「言いたかったことと、書かれたことの不一致」の図式を、ここでも採用せよと、言語に誘われている。
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何らかの物理的な接続によって、別の人の内語をわたしが直接聞けるようになったとして、それはその人の内語をわたしが聞いているだけであって、わたしの内語ではない、と言っても良いだろうか。
良い気がする。
すると、そのような接続を行って、「ああ、わたしの内語が聞こえる」といっても良い状況とは、どのような状況だろうか。それは一つに「自分の」脳に自分で接続を行うフィードバックループのようなものだろう。
では「自分の脳」とは何か。もちろん、わたしのこの身体の頭蓋に収まっている脳のことだけとは限らない。物理的に異なる、例えばクローニングされた脳であっても、それは「自分の脳」といえるだろう。
そのような脳と自分の身体の頭蓋に収まっている脳を直結して、クローン脳が内語を話したとき、「ああ、私の内語が聞こえる」と言うだろうか。あるいは、言っても良いだろうか。
言って良いかもしれない。
しかし「いや、あくまでその脳が何か言っているのであって、私じゃない。」とも反対されるかもしれない。
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わたしはこういった思考実験で、「内語」に関する補助線を、とにかく一本引こうとしている。
(が、うまくいってない)
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