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探求 第2章(できません編(1))

2つの直線で、三角形を1つ作れと人に命じる。

命じられた人は悪戦苦闘した挙句、私に、すみません、どうやってもできませんでした、と報告してくる。

それは例えば、すみません、この問題集の23番が解けませんでした、とか、今月の売上を達成できませんでした、ということと、どう違うのだろうか。

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同じように、矛盾律の否定を自分に言い聞かせ、いやそんなことはありえない、とか、矛盾律の否定を考えることは不可能だ、などと言うとき、それはその人の能力不足の故なのか。

問いの23番を解けない人が教えれば解けるように、画期的な経験を得さえすれば、その人はやがて矛盾律の否定に同意するのか?

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これは椅子であるか、椅子でないかのどちらかである、と自分に言い聞かせてみる。

そうしながら椅子を思い浮かべ、形をそのままで、違うものに少しずつ変型しようと試みるが、出来ない。椅子では出来ないということが判明したので、今度は机で同じ様な作業をやってみる。それも出来ない。

やがて周囲にある総てのもので出来ないということが判明し、時ある毎に、様々な場所で同じことを試すが、どうしても出来ない。

そしてその人はついに、排中律は正しかったと叫ぶ

。。。とてつもなく噛み合っていない歯車の一例。

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・2つの直線で構成される三角形など想像「できない」

・平面上の2本の平行線がやがて交わることは想像「できない」

・黒い白鳥は想像「できない」

・この目の前のりんごが赤であると同時に黒であることは想像「できない」

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したがって思わずこういいたくなる。

世の中には、経験にも能力にもよらず、それだけで正しいといえるような、誰も疑い得ない主張があるではないか、と。

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しかしこうも言えるかもしれない。2つの光源からでた光は空気中で平行だが、一方が水に浸入すると屈折率の変化で交わる。したがって2つの平行線が交わることは想像「できる」。

あるいは、半分赤、半分黒のペンキで塗られたりんごが高速回転しているなら、それは赤であると当時に黒といえるのではないだろうか。

-- そう、注目すべきは、そのような指摘が出たときに生じる劇的な転回感。

この瞬間に言葉の定義や話の前提が「入れ替わった」「違う解釈を与えられた」という感覚。

一方で、「できる」<->「できない」が、お互いに反対の対等な位置にあって、そのどちらも等しく検討されうるパターンがある。
・問題集の23番を解くことが「できません」
・月末までに100万円用意することなど「できません」

そして、「できる」場合を指摘した瞬間に、話の枠組みや言葉の定義が一変してしまうような、もう一方のパターンがある。

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そこでわたしはさしあたり、こう考えたい。

1. 意味があるようにみえるが、機能していない

「3は数字である」「赤は色である」

理由:その逆「3は数字でない」が意味をもたないため

2. 明らかなランダムではないが、ナンセンス

「角の二等分は砂糖で煮たらどうなるか?」

個々の単語は正しい。ただ、その組み合わせは、許されていない。

3. 世界の誰もまだ正しいか正しくないか言えないが、やがて言えるようになると信じられている

例:リーマン予想、場の大統一理論、 etc, etc.

4. 反証不可能

「私にはあなたの守護霊が見えます」「修行すれば天国にいけます」

5. ことばの成立条件として作用する

矛盾律。幾何学原理。算術。確率論。

6.そしてこれ以外の、豊穣な日常言語の世界。

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わたしはこれを積み木のバランス玩具(ジェンガ)に例えよう。

1-6は、互いに支えあっている。どれかを取り去ると崩れてしまうことがあるという意味で、積み木は対等でない。よく観察しないと、互いにどう支えあっているのか、わからない。

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